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藤原道長の娘一覧とそれぞれの生涯を簡単にお伝えします!

藤原道長の娘のイメージイラスト
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藤原道長の娘たち

藤原道長は摂関政治の中心になった人物で、絶大な権力を握っていました。

そして権力を維持するために使われたのが、藤原道長の娘たちです。

この記事では、藤原道長の娘を一覧でご紹介するとともに、それぞれの生涯を簡単にお伝えします。

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藤原道長の娘たちの一覧

藤原道長は、966年に生まれ、1028年に亡くなります。

生涯に設けた子は13人、そのうち6人が娘です。
名前読み方生没年母親
藤原彰子ふじわらのあきこ又はしょうし988年~1074年源倫子
藤原妍子ふじわらのきよこ又はけんし994年~1027年源倫子
藤原寛子ふじわらのひろこ又はかんし999年~1025年源明子
藤原威子ふじわらのたけこ又はいし1000年~1036年源倫子
藤原尊子ふじわらのたかこ又はそんし1003年頃~1087年頃源明子
藤原嬉子ふじわらのよしこ又はきし1007年~1025年源倫子
それでは、藤原道長の娘それぞれの生涯をお伝えします。

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藤原道長の娘 藤原彰子(988年~1074年)

藤原彰子は、第66代一条天皇の中宮(皇后)になった女性で、二人の子をもうけています。

一人は後に第68代後一条天皇、もう一人は第69代御朱雀天皇になっています。

もっとも後一条天皇は1036年に崩御、御朱雀天皇は1045年に崩御しているので、藤原彰子よりもかなり前に亡くなっていることが分かります。

藤原道長の後継となったのは藤原頼通(992年~1074年)で、姉の藤原彰子は弟を支えて摂関政治を維持したと伝えられています。

1074年、藤原頼通は亡くなり、同年に藤原彰子も亡くなり、摂関政治は終わりを迎えています。

なお藤原彰子の元には、紫式部や和泉式部など後世に名前を残す女房がいたことでも知られています。

 
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藤原道長の娘 藤原妍子(994年~1027年)

藤原妍子は、第67代三条天皇の中宮になった女性です。

当時、一条天皇の中宮と藤原彰子の間には二人の男子(後の後一条天皇と御朱雀天皇)が誕生していて、藤原道長の体制は万全のように思われました。

しかし、一条天皇の皇太子は後の三条天皇(一条天皇の従兄弟)で、藤原道長とは深い結びつきがありませんでした。

そこで、万が一のことを考えて藤原道長が行ったのが、藤原妍子の入内です。

ただ、三条天皇と藤原妍子の間に男子の誕生はなく、三条天皇自身は藤原道長の圧力に屈し、後一条天皇に譲位をしています。

藤原道長の娘 藤原寛子(999年~1025年)

藤原寛子は、第67代三条天皇の第一皇子敦明親王(小一条院、994年~1051年)の妃になった女性です。

敦明親王の父三条天皇は、前述のように藤原道長の圧力に屈し後一条天皇に譲位。

敦明親王は後一条天皇の皇太子となりますが、こちらも藤原道長の圧力を受け、皇太子を辞しています。

その後、敦明親王は藤原道長の計らいで「小一条院」の尊号を得るとともに、「准太上天皇」として高い処遇を受け、さらに藤原寛子を妃に迎えています。

小一条院と藤原寛子の間には男子も誕生しますが、9歳の頃に亡くなっています。

※ 藤原道長の第二女藤原妍子は三条天皇の中宮。第三女藤原寛子は三条天皇の第一皇子敦明親王の妃になっています。

藤原道長の娘 藤原威子(1000年~1036年)

藤原威子は、第68代後一条天皇の中宮となった女性です。

後一条天皇は、第66代一条天皇と藤原威子の姉藤原彰子の間に生まれています。

したがって、後一条天皇は藤原威子にとって甥にあたる人物で、年齢も10歳近く上であったようです。

後一条天皇と藤原威子の間には二人の女子が誕生するも男子はいませんでした。

藤原威子は後一条天皇崩御と同じ年に病気で亡くなっています。

藤原道長の娘 藤原尊子(1003年頃~1087年頃)

藤原道長の娘の中で、唯一生没年がはっきりしないのが藤原尊子で、これは藤原尊子が結婚したのが皇族ではないためと考えられます。

藤原尊子は源師房(1008年~1077年)と結婚します。

源師房は、藤原道長の後継となった藤原頼道の猶子であるものの皇族ではありません。

これは、宮中に適当な人物がいなかったためともいわれていますが、藤原氏が自家の安定のため源氏との結びつきを深めたかったためともいわれています。

もっとも源師房は右大臣を務めた人物であり、二人の男子も後に左大臣・右大臣になっています。

藤原道長の娘 藤原嬉子(1007年~1025年)

藤原嬉子は、第66代一条天皇と藤原嬉子の姉藤原彰子の間に生まれた、第69代後朱雀天皇の皇太子敦良親王(後の後朱雀天皇)に入内しています。

敦良親王と藤原嬉子の間には親仁親王が誕生しますが、藤原嬉子自身はその直後に亡くなります。

この時に誕生した子は、後に後冷泉天皇になります。

第70代後冷泉天皇は藤原頼通の娘を中宮にしますが、二人の間に男子が誕生することはありませんでした。

後冷泉天皇は1068年に崩御。

後冷泉天皇の異母弟が第71代後三条天皇になるものの、後三条天皇の母は禎子内親王。

藤原氏とは深い結びつきはなく、摂関政治は終焉に向かっていきます。

まとめ

この記事では、藤原道長の娘を一覧でご紹介するとともに、それぞれの生涯をお伝えしました。

藤原道長の娘6人の中で、5人は皇室と深い結びつきがあります。

藤原道長、そして後継になった藤原頼通が絶大な権力を維持し続けられたのも、藤原道長の娘たちの力によるところが大きかったのではないでしょうか。

 
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