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徳川家康の城一覧
徳川家康は生涯で4つの城に居住したと考えられています。徳川家康は、幼少期から青年期にかけての人質生活で人生をスタートさせながらも躍進。江戸幕府初代将軍になるとともに、15代続いた幕府の礎を築いています。
その長い生涯の過程で徳川家康は住む城を変えていきます。
この記事では、徳川家康が住んだ城一覧をお示しするとともに、時系列でその城で起きた出来事をお伝えしていきます。
徳川家康の城一覧
徳川家康が住んだ時期 | 所在 | |
岡崎城 | 1543年~1570年 | 愛知県岡崎市 |
浜松城 | 1570年~1586年 | 静岡県浜松市 |
駿府城 | 1586年~1590年 | 静岡県静岡市 |
江戸城 | 1590年~1607年 | 東京都千代田区 |
駿府城 | 1607年~1616年 | 静岡県静岡市 |
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徳川家康の城1 岡崎城
1543年、徳川家康は岡崎城で生まれます。父は西三河一帯を治める松平広忠で、徳川家康は嫡男です。しかし、当時の松平氏は弱小勢力。徳川家康は4歳の時に織田氏の人質になり、さらに6歳の頃には今川氏の人質になります。
織田氏の人質として暮らしたのは、織田氏の家臣の屋敷。今川氏の人質として暮らしたのは、臨済寺(現在の静岡市)であると考えられています。
何れにしても、徳川家康は居城に住むことができず、岡崎城は今川氏から派遣された武将が城代をしていました。
徳川家康が岡崎城に戻ることができたのは、1560年の桶狭間の戦いで今川義元が討死をした後。
徳川家康は人質生活を送っていた駿府に戻ることなく、ようやく岡崎城に帰ることができています。
徳川家康の城2 浜松城
岡崎城に入った徳川家康は今川氏と決別。1561年には、織田信長と清洲同盟を結びます。そして、1567年には徳川家康の嫡男松平信康と織田信長の娘徳姫が結婚。
同年、松平信康に岡崎城を委ねるとともに、徳川家康自身は浜松城に移ったと考えられています。
もっとも、松平信康が正式に岡崎城主になったのは1570年。隣国の武田家の圧力が強くなったことを契機に、徳川家康は浜松城を本城としています。
その後の出来事を列記すると
1572年 | 三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗 |
---|---|
1575年 | 長篠の戦で武田勝頼に大勝 |
1579年 | 築山殿事件で正室築山殿と嫡男松平信康を失う |
1582年 | 本能寺の変で織田信長が討たれる |
1584年 | 小牧長久手の戦いで豊臣秀吉と戦う |
1586年 | 豊臣秀吉に臣従 |
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徳川家康の城3 駿府城
1586年、徳川家康は豊臣秀吉に臣従します。そして、直後に約17年間を過ごした浜松城から駿府城に本城を移します。駿府城は、少年時代を人質として過ごした今川氏の本拠地です。徳川家康が浜松城からさらに東の駿府城に移った理由は定かでありません。
臣従したことで豊臣秀吉に対する脅威が薄れた、徳川氏の勢力が東に伸びていたので統治をしやすい場所に移る必要があった。
可能性としてはそのあたりのことが考えられます。
1590年、豊臣秀吉は小田原征伐を行い、大名としての北条氏を滅亡に追い込みます。北条氏の治めていた土地は空白になりますが、そこを与えられたのが徳川家康です。
徳川家康は、それまで治めていた三河・遠江・駿河など約120万石を失う代わりに、関東地方で250万石を与えられます。
そこで、徳川家康が本城と定めたのが江戸城です。
徳川家康の城4 江戸城
江戸城は、1547年に太田道灌によって築城されています。しかし、その頃の江戸城の規模は小さく、築城後に北条氏がこの地を治めるようになってからは荒廃。
さらに江戸城付近は湿地帯で、海も間近に迫っています。
当時の江戸城は、現在の皇居とは比較にならない規模で、さらに大規模な修復や拡張が必要でした。
江戸城の修復や拡張については、神田の山を切り崩して埋め立て、水の便の整備、建物の修復や新設が必要ということもあり、長い時間と多額の費用が必要になります。
1600年関ケ原の戦いに勝利し、1603年江戸幕府を創設して以降は、天下普請として大名たちに費用を負担させたりしていますが、多くの時間を費やして江戸城を完成させたのは間違いないところです。
1590年に江戸城を本城に定めて以降の主な出来事を列記します。
1598年 | 豊臣秀吉病没 |
---|---|
1599年 | 五大老筆頭として政務をみるため大坂城西の丸に入る |
1600年 | 会津征伐に向かう |
1600年 | 関ケ原の戦いで勝利する |
1601年 | 政務をみるため大坂城西の丸から伏見城に移る |
1603年 | 江戸幕府の初代将軍となる |
1605年 | 将軍の座を三男の徳川秀忠に譲る |
1607年 | 駿府城に移る |
江戸幕府の本拠は江戸城のままであるものの、将軍職を譲り隠居となった徳川家康が駿府城に住まいを移した形になります。
もっとも、徳川家康は大御所として権力を握り続けます。
役割としては、将軍の徳川秀忠が江戸幕府の整備に努め、徳川家康は特に豊臣家ににらみをきかせるなど外交の役割を担っています。
この時期の政治を、徳川家康による大御所政治と称していますが、実際の権限は徳川家康が握り続けていたと思われます。
徳川家康の城5 駿府城
駿府城に移った徳川家康にとって、一番の悩みとなっていたのが豊臣家の存在です。関ケ原の戦いに勝利し、江戸幕府を開いた徳川家康は天下人になり、それまで天下人の地位にいた豊臣家は一介の大名になります。
ただし豊臣家そのものは、徳川政権に組み入れられることもなく、独自の地位を保ち続けています。
また、大名の中にも豊臣恩顧の大名は数多くいて、まだまだ江戸幕府は盤石とは言えない状況でした。
高齢になっていた徳川家康が仕掛けたのが1614年の大坂冬の陣、1615年の大坂夏の陣。この二つの戦いで豊臣家を滅亡に追い込み幕府を盤石なものにします。
豊臣家滅亡後も引き続き政務に励みますが、翌1616年に駿府城で病没しています。
まとめ
徳川家康は生涯で5つの城に住んでいます。もっとも、駿府城には2回住んでいるので、実質は4つの城になります。徳川家康の城の移り変わりを見ると、基本的には元々あった城に住んだという特徴があります。
岡崎城は先祖代々の城。
浜松城も大幅な改築をしたと考えられていますが、やはり元々からあった城。
駿府城も戦国大名の今川氏が居城としていた城。
江戸城だけは以前よりあったとはいえ、土地の地盤が悪く、荒廃していたことから相当な時間と多額の費用がかかっていますが、結果的に260年以上続く江戸幕府の本拠になっています。
戦国時代を終息に導いた武将としては、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康があげられます。
この3人の武将の個性は城づくりにも現れています。
織田信長に代表されるのは安土城です。安土城は交通の便に難があり、織田信長自身も最終的には大坂の地を狙っていたとも言われています。
織田信長にとっては途中経過の城であったかもしれませんが、安土城は何よりも意匠に工夫がこらされています。
織田信長は美的感覚が優れていたと言われていますが、安土城はその一端を垣間見せてくれる城です。
豊臣秀吉に代表されるのは大坂城や聚楽第です。何れの城も現在は残されていませんが、壮大かつ華美であったと考えられています。
豊臣秀吉は黄金の茶室でも知られていますが、派手好みの性格が城にも反映されているようです。
徳川家康が積極的に開発に携わったのは江戸城です。
もっとも、これは必要に迫られたものであり、織田信長のような卓抜したセンス、豊臣秀吉の派手というキーワードは浮かび上がってきません。
江戸城も当時のものが現存しているわけではないのでわかりませんが、徳川家康の城づくりにはどんなキーワードがあったのでしょうか。
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