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はじめに
島津斉彬(しまづなりあきら)と西郷隆盛(さいごうたかもり)の関係を、わかりやすくご案内していきます。島津斉彬と西郷隆盛の関係は、主君と家臣。
島津斉彬が西郷隆盛を見出し、西郷隆盛も島津斉彬の命に忠実に従った。
これが島津斉彬と西郷隆盛の関係です。
この記事では、島津斉彬と西郷隆盛の関係について、出会いから別れまでを中心にお伝えしていきます。
島津斉彬と西郷隆盛の関係は、単に主君と家臣という関係だったのでしょうか。
それとも、島津斉彬と西郷隆盛の関係にはもっと深いものがあったのでしょうか。
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島津斉彬と西郷隆盛の関係1 出会い
薩摩藩第11代藩主である島津斉彬の生年は1809年、没年は1858年、49歳で亡くなっていますです。
一方の西郷隆盛の生年は1828年、没年は1877年。西郷隆盛は奇しくも主君である島津斉彬と同じ49歳で亡くなっています。
島津斉彬が薩摩藩主に就いたのは1851年。島津斉彬41歳の頃です。
島津斉彬は積極的な人材登用を推し進めますが、島津斉彬の目に留まったのが西郷隆盛です。
島津斉彬と西郷隆盛の関係は、島津斉彬40歳代前半、西郷隆盛20歳代前半に始まったと考えられます。
当時の西郷隆盛は薩摩藩の下級武士として、郡の農政に関わる仕事である郡方書役助という仕事に携わっていました。
薩摩藩の新しい藩主である島津斉彬は広く家臣に意見を求めています。そして注目をしたのが西郷隆盛から差し出された建白書。
建白書そのものは現存をしていないので詳細は明らかではありませんが、農政に関わるものと言われています。
また、この建白書は単に農政だけでなく、国全体を見れば農民は経済の元であり、武士は国の経済の元である農民を慈しみ育てなければならない。
そのような趣旨の建白書であったとも考えられています。
建白書を読んだ島津斉彬は、西郷隆盛の考えに興味を惹かれ、西郷隆盛を呼び出したところ、西郷隆盛の大きな体とそれに見合うような強い意志。
そして、温和で落ち着いた雰囲気を見て、西郷隆盛を近くに置くようになった。
明確な証拠はありませんが、島津斉彬と西郷隆盛の出会いについては、大筋ではこのように考えられています。
島津斉彬と西郷隆盛の関係2 登用
さて、西郷隆盛を身近に置くことを考えた島津斉彬ですが、西郷隆盛は薩摩藩の下級武士の一人。藩主とはいえ、西郷隆盛を急に引き上げることはできません。
そこで島津斉彬は西郷隆盛に「お庭方役」を命じます。
西郷隆盛は身分が低いため、室内で面談や命令をすることができません。
そこで主君である島津斉彬が、お庭方役として庭にいる西郷隆盛に声をかける。
身分があまりにも違いすぎるため、島津斉彬と言えども、こうした形でしか西郷隆盛を登用することができなったようです。
もっとも庭先で声をかけるというのは、公式ではなく非公式のもの。
言い換えると、島津斉彬は形式にこだわることなく、さまざまなことを西郷隆盛に命じることができるようになります。
では、どうして島津斉彬は西郷隆盛を登用したのでしょうか。
島津斉彬は、西郷隆盛の学識を評価したわけではないようです。
また、近くに置くとはいっても、西郷隆盛の武術を見込んだわけでもないようです。
西郷隆盛は下級武士で、上級武士のような学問をしていたわけではありません。
また西郷隆盛は少年の頃に腕を怪我して、剣術の修業を諦めたという経緯もあります。
島津斉彬は西郷隆盛の知識や武術を評価したわけではなく、西郷隆盛の潜在的な能力や胆力を見込んだものと思われます。
島津斉彬の命を受けた西郷隆盛は、越前の橋本左内、水戸藩の藤田東湖や武田耕雲斎、熊本藩の長岡監物など、当時の日本の著名な人物の多くと交わっていきます。
薩摩藩以外の人物とも多く交わるようになった西郷隆盛は、知識見聞を大きく広め、西郷隆盛自身の名前も知られるようになっていきます。
また、島津斉彬は各藩の有力者たちに対して、西郷隆盛を引き立てるよう願っていたとも伝えられています。
そして、島津斉彬と西郷隆盛の関係で欠かせないのが篤姫の存在。
島津斉彬は、徳川家の次の将軍を徳川慶喜にすることを画策。
そのため、一門である島津忠剛の娘(篤姫)を自らの養女とし、さらには近衛家の養女としたうえで、篤姫を13代将軍徳川家定の正室とすることに成功をします。
このとき篤姫の輿入れの準備をしたのが西郷隆盛。西郷隆盛の努力により篤姫の輿入れが滞りなく成功したと言われています。
西郷隆盛は島津斉彬に才能を見いだされ、西郷隆盛もその才能をどんどんと高めていきます。
しかし、島津斉彬と西郷隆盛の関係は長くは続きませんでした。
島津斉彬と西郷隆盛の関係3 別れ
島津斉彬は、1858年に急死をします。そして、島津斉彬と西郷隆盛の関係もここで終わってしまいます。
西郷隆盛が島津斉彬に見いだされたのが1851年よりあと。
島津斉彬が亡くなったのは1858年。
最長でも僅か7年で、島津斉彬と西郷隆盛の関係は終止符を打つことになります。
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さいごに 島津斉彬と西郷隆盛の関係を示すエピソード
島津斉彬が亡くなった時、西郷隆盛は殉死を考えたと伝えられています。西郷隆盛にとって島津斉彬は主君であり、師であり、尊敬できる人物であったのは間違いのないところです。
一方、島津斉彬も西郷隆盛のことを評価していました。
評価していたからこそ、数多くの人物と交わらせてきたとも言えそうです。
もっとも島津斉彬は、西郷隆盛のことを危惧してもいました。
それは西郷隆盛をコントロールできるのは自分だけであり、他の者は西郷隆盛を決して抑えることはできないというものです。
島津斉彬が亡くなった後、実質的に薩摩藩の実権を握ったのは島津斉彬の弟である島津久光です。
島津久光は、島津斉彬を尊敬していたと言われています。また、島津久光は教養も十分で、決して暗愚な人物ではありませんでした。
しかし、西郷隆盛から見たら島津斉彬と島津久光では、はかり知れないほどの器量の差があるように映っていました。
西郷隆盛は、島津久光を嫌い馬鹿にしていたと言われています。
また、島津久光も自分の命令に従わない西郷隆盛に業を煮やし、遠島を命じてもいます。
さらに明治維新後、西郷隆盛は征韓論に敗れて後、周囲の説得に耳を貸すこともなく、明治政府の官職を辞して薩摩に帰郷。
最期は西南戦争で敗れ命を落としています。
西郷隆盛は多くの人が「大きな人物」と讃えています。
しかし、大きいがゆえに誰も西郷隆盛を制御することはできなかったともいえます。
主君である島津斉彬の言葉のように、西郷隆盛を御することができたのは、島津斉彬だけだったのかもしれません。
島津斉彬と西郷隆盛は単に主従という関係ではなく、他人には計り知れないほどの、大きな何かで結ばれていたのではないでしょうか。
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