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井伊家と家紋の由来とは!簡単にわかりやすくご紹介します

井伊家の家紋の元になった橘
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井伊家と家紋の由来を簡単にご紹介します

井伊家といえば、戦国時代末期の井伊直政と、幕末の井伊直弼があまりにも有名です。

井伊直政は徳川家康の元、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政とともに徳川四天王の一人として活躍した人物として知られています。

井伊直政に限らず徳川四天王は、徳川家康が地方の一大名に過ぎない時から徳川家に忠誠を誓い、徳川家康が江戸幕府を創設するころまで徳川家康を支えていた武将たちです。

一方、井伊直弼は江戸幕府の大老として安政の大獄を引き起こした人物。そして最期は、桜田門外の変で散った人物として有名です。

井伊直弼の暗殺によって江戸幕府の屋台骨は大きく揺らぎ、やがて江戸幕府は終焉を迎えて明治維新に向かっていく。図らずもそのきっかけを作った人物として知られています。

この記事では、井伊直政や井伊直弼にとってのおおもとである井伊家の由来と、井伊家の家紋の由来について簡単にご紹介します。

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井伊家の由来とは

今、ご紹介した井伊直政は井伊家第24代の当主。井伊直政は1561年に生まれ、1602年に亡くなっています。

井伊直政が生まれた1561年は、織田信長が今川義元を桶狭間の戦いで討ち取った翌年。

今川氏の人質に過ぎなかった徳川家康が、今川家を離れて織田信長に接近を図ろうとしていた時期になります。

井伊直政が亡くなった1602年は、天下分け目の関ヶ原の戦いの2年後。江戸幕府が創設される前年に当たります。

井伊直政は徳川四天王の一人として、戦国時代の末期を生きた武将ということになります。

その井伊直政が井伊家第24代の当主ということですから、井伊家はとても長い歴史のある家ということがわかります。

では、井伊家の由来はどこまで遡ることができるのでしょうか。

井伊家の初代は井伊共保です。

井伊共保は平安時代の1010年に生まれ、1093年に亡くなります。この生没年が正しければ、井伊共保は当時としては相当の長命であったことがうかがえます。

井伊共保が生まれた場所は井伊谷(現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)。

井伊共保は、井伊谷にある八幡宮にある井戸端に捨てられていたのを、神主が発見したと伝えられています。

江戸時代は武門の中でも名門とされていた井伊家ですが、どうやらその始祖である井伊共保の出自ははっきりとしてないようです。

もっとも、井伊共保は幼少のころから聡明で知られていました。

そして7歳の頃にはその噂を聞きつけた遠江の国司である藤原共資の養子となり、藤原共保を名乗り、後に生まれた場所である井伊谷に城を築き井伊共保となります。

なお、井伊共保が捨てられていた八幡宮(渭伊神社)には今も井戸が残り「御手洗(みたらし)の井戸」と言われています。

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井伊家の家紋の由来とは

井伊家の家紋(裏紋)
井伊家の家紋の由来は、井伊共保が捨てられていた井戸にあります。

ところで、家紋には表紋と裏紋があります。

表紋は代表紋とも言われ、その一族を代表する家紋になります。表紋は公式の場で使う家紋とされています。

一方、裏紋は替紋とも言われ、旗指物などに使用する家紋になります。

井伊家の場合、表紋は橘(たちばな)、裏紋は井桁(いげた)になります。

井伊家が橘を表紋としたのは、井伊共保が捨てられていた井戸の傍らに橘の木が植えられていたことに由来するようです。

橘はミカン科に属する樹木で、松と同様に常緑樹であることから、永続を連想させる縁起物とされています。

井伊家が橘を表紋としたのは、井伊共保の生まれた場所に由来するようですが、合わせて永続を願うという意味が込められていたことがわかります。

井伊家の裏紋である井桁にも由来があります。

それはまさに井戸。井伊家の始祖と言われる井伊共保が捨てられていたのは井戸の傍ら。そのため、井戸を連想させる井桁紋を裏紋に採用しています。

さいごに

井伊家の家紋の元になった橘
この記事では、井伊家の由来。

そして井伊家の家紋の由来について、簡単にご紹介をしてきました。表紋である橘にも、裏紋である井桁紋にも、しっかりとした由来があるようです。

この記事では、井伊家の由来や井伊家の家紋の由来について書いてきましたが、果たして今の日本にこれだけ遡れる家系がどの程度あるのか。

記事を書いていて改めてそのことに思い至りました。

 

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