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この記事では、薩摩藩士である有村雄助(ありむらゆうすけ)・有村次左衛門(ありむらじざえもん)兄弟と、桜田門外の変との関わり合いについてご紹介をします。
ところで、幕末の薩摩藩はたくさんの人物を輩出をしていますが、有村雄助・有村次左衛門は有村三兄弟として知られていました。
まずは、この三兄弟の生没年からご紹介をしていきます。
有村俊斎(後の海江田信義) 1832年~1906年
有村雄助 1835年~1860年4月14日
有村次左衛門 1839年~1860年3月24日
有村三兄弟の中で長兄の有村俊斎は長命を保っています。対して、有村雄助と有村次左衛門はずっと若く、桜田門外の変があった年に亡くなっています。
では、有村雄助・有村次左衛門と桜田門外の変とはどのような関係があったのでしょうか。
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桜田門外の変が起きるまで
有村雄助・有村次左衛門兄弟にとって大きな転機となったのは1858年ではないかと思われます。有村雄助・有村次左衛門は江戸にいました。当時の江戸で盛んに言われていたのは尊皇攘夷。
1858年7月に大老の井伊直弼の主導で日米修好通商条約が締結されたことで、尊皇攘夷運動がますます激しくなっています。
また、1858年8月には薩摩の国元で藩主である島津斉彬が急死します。
日米修好通商条約による尊皇攘夷運動の過熱と、薩摩藩主である島津斉彬の急死などを契機として、有村雄助・有村次左衛門兄弟はますます尊皇攘夷運動に傾倒をしていきます。
その結果としてはっきりとした月日まではわかりませんが、1858年のうちに有村雄助・有村次左衛門兄弟は薩摩藩を脱藩したと考えられています。
抑えるものがいなくなった有村雄助・有村次左衛門兄弟は尊王攘夷運動の中心となって活動をしていた水戸藩に接近。
そして起こったのが1858年から1859年にかけての安政の大獄です。
前述のとおり、江戸幕府の大老であった井伊直弼は1858年7月に日米修好通商条約を締結します。
しかし、この条約は明らかに不平等であったうえ、朝廷の許し(勅許 ちょっきょ)を得ていないものであったため、尊王攘夷派だけでなく多くの大名たちも反対をします。
また、合わせて言えば当時の13代将軍徳川家定は病弱で子もいなかったことから、徳川家茂を後継とする南紀派と、一橋慶喜を後継とする一橋派が争っていました。
井伊直弼は南紀派の代表格。井伊直弼は敵対する一橋派の排除とともに、自らの政策に反対する諸大名を処断します。
具体的には松平慶永、徳川斉昭(水戸藩前藩主)・徳川慶篤(水戸藩藩主)・一橋慶喜に対して隠居謹慎の処分を行いますが、この余波は大名だけでなくいわゆる志士にも及んでいます。
その結果として起こったのが桜田門外の変です。
水戸藩士からみたら井伊直弼は
・ 南紀派の井伊直弼が、一橋派の徳川斉昭・徳川慶篤を処断した
・ 井伊直弼の締結した条約は尊皇攘夷の考えとは相いれないものであった
また、島津斉彬と徳川斉昭は将軍継嗣問題では協調関係にあり、薩摩藩と水戸藩には交流もありました。
安政の大獄で島津斉彬は何の処分も受けてはいませんが、それはすでに島津斉彬が亡くなっていたため。
相変わらず水戸藩と薩摩藩の尊皇攘夷派の武士たちには深い結びつきがありました。
そして、1860年3月24日に桜田門外の変が起こります。
この日は旧暦でいえば安政7年3月3日で「上巳の節句」。井伊直弼も江戸城へ登城をする日でした。
その行列を狙ったのが水戸藩と薩摩藩を脱藩した志士18名。ただし、内17名は旧水戸藩士で旧薩摩藩士は有村次左衛門だけという状態でした。
井伊直弼の暗殺計画は、水戸藩と薩摩藩の二藩で進められていました。
しかし、島津斉彬が亡くなり、その後に薩摩藩の実質的権力を握った島津久光の意向で薩摩藩は直前に離脱。
結果的に桜田門外の変に参加した薩摩藩の武士は脱藩した有村次左衛門のみとなっています。
では、このとき有村次左衛門の兄である有村雄助はどうしていたのでしょうか。
有村雄助は桜田門外の変に参加はしなかったものの変節をしたわけではありませんでした。
有村雄助は桜田門外の後、その成否を見極めたうえで京都や大坂で兵をあげる予定となっていました。
桜田門外の変に直接に参加したのは有村次左衛門だけです。でも兄の有村雄助も有村次左衛門と志は一にしていました。
それでも井伊直弼の施政に対して明確に反旗を翻したのは薩摩藩ではこの2人だけ。島津斉彬を亡くした薩摩藩は、この時期、一番の混迷にあったようです。
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有村雄助・有村次左衛門の最期
水戸浪士たちは自邸をでて、江戸城の桜田門に向かう井伊直弼の行列に切り込みます。
当日は雪。抜刀をしている水戸浪士たちに対して、井伊家の武士は刀に柄袋をかけている状態だったため、井伊直弼が乗った籠に容易に近づくことができました。
浪士たちはその籠に刀を突きさします。 そして、最後に井伊直弼を籠から引き出し、とどめを刺すことに成功をします。
籠から井伊直弼を引き出しとどめをさしたのは薩摩藩から唯一参加をした有村次左衛門。
有村次左衛門は井伊直弼の首を運ぼうとしますが、そのとき井伊家の家臣であった小河原秀之丞がその首を奪い返そうとして有村次左衛門の後頭部に切りつけます。
重傷を負った有村次左衛門は歩くこともできなくなり若年寄遠藤胤統邸の門前で自決します。
では、有村雄助はどうだったのでしょうか。
桜田門外の変の成功をみた有村雄助は京都に向かいますが、京都の直前で薩摩藩により捕縛。その後、薩摩に護送されて切腹を命じられてその生涯を終えています。
有村次左衛門享年23。有村雄助享年26。2人とも若すぎる死でした。
さいごに 桜田門外の変後
桜田門外の変で襲撃は成功しました。
しかし襲撃に参加した浪士たちの多くは、その場で亡くなったり、その後に処罰をされて斬罪に処せられています。
結果として明治を迎えることができたのはどうやら1人だけ。 桜田門外の変は、参加した浪士たちにとって命を懸けた決起の行動であったようです。
では、桜田門外の変が起こった理由はなんだったのでしょうか。
簡単に言えば井伊直弼の圧政に対する抗議、そして幕府の改革を企図したものでした。つまり桜田門外の変は倒幕を意図したものでは決してありません。
しかし当時の政権の中心にあった大老の井伊直弼が白昼堂々暗殺されたのは事実。
桜田門外の変により江戸幕府はさらに弱体化し、結果的に明治維新を迎えることになります。
歴史の教科書にもでてくる桜田門外の変。有村雄助や有村次左衛門の思惑とは別に、歴史の大きな転換点となったのは確かなようです。
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