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島津久光と西郷隆盛の関係を3つの場面に分けお伝えします

はじめに

この記事では、島津久光と西郷隆盛の関係を3つの場面に分けてお伝えします。まず初めに、島津久光と西郷隆盛について、簡単にご紹介をしていきます。

島津久光とは

島津久光は、1817年に生まれ、1887年に亡くなります。

父は、薩摩藩第10代藩主島津斉興。兄は、薩摩藩第11代藩主島津斉彬。そして、自らの子である島津忠義は、薩摩藩第12代藩主になっています。

島津久光自身は藩主にはなっていませんが、島津忠義の父として幕末の薩摩藩において実質的な権力を握っていました。

明治維新後は、新政府のやり方に批判的な立場であったものの、新政府に反乱を起こすこともなく新政府の叙位・叙勲を受け入れ、1887年に鹿児島において病没をしています。

西郷隆盛とは

西郷隆盛は、1828年に生まれ、1877年に亡くなります。西郷隆盛は島津久光よりも約10歳の年少であったようです。

薩摩藩の下級武士に過ぎなかった西郷隆盛を見出したのは、島津久光の兄である島津斉彬です。島津斉彬により活躍の場を広げた西郷隆盛は、明治維新の原動力になっています。

西郷隆盛は明治政府においても重用されるものの、1873年の征韓論に敗れて下野、薩摩に戻ります。そして、1877年には西南戦争の中心人物に押し上げられ、最期は城山で自刃をします。

それでは、島津久光と西郷隆盛の関係を3つの場面に分けて、お伝えをしていきます。

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島津久光と西郷隆盛の関係1 お由羅騒動

島津久光と西郷隆盛は不仲であったと伝えられています。そのきっかけが何であったかは、はっきりとはしていません。

ただ、島津久光と西郷隆盛の不仲を決定づけたのは、1848年頃から1851年まで続いた「お由羅騒動」ではないかと考えられています。

薩摩藩第10代藩主島津斉興と、正室弥姫の間には嫡男の島津斉彬がいました。また、島津斉興と、側室お由羅の方には五男の島津久光がいました。

普通に考えれば、薩摩藩第11代藩主は島津斉興の嫡男である島津斉彬であったはずです。ところが、正室の弥姫は早くに亡くなり、側室のお由羅の方が島津斉興の寵愛を受けていました。

島津斉興は嫡男の島津斉彬を廃し、側室のお由羅の方の子である島津久光を後継にしようと考えます。そこで起こったのが、いわゆるお由羅騒動です。

お由羅騒動は家中を2分しました。結果的に薩摩藩の第11代藩主には島津斉彬が就き、島津斉興は隠居を余儀なくされます。

このお由羅騒動において島津久光も当事者の一人です。しかし、島津久光自身はお由羅騒動に直接関わっていなかったと言われています。

むしろ島津久光は兄の島津斉彬を尊敬し、島津斉彬も弟の島津久光の学識の深さを評価していたとも伝えられています。

島津斉彬と島津久光、当事者同士の関係は決して悪いものではなかったようですが、お由羅騒動が終息した後も、島津斉彬派と島津久光派の間では遺恨が残ったようです。

西郷隆盛は島津斉彬に見いだされ表舞台に立った人物。島津斉彬に心酔するとともに、お由羅騒動で多くの島津斉彬派の藩士が命を失ったことも目のあたりにしています。

そのため、西郷隆盛は島津久光に対して大きな反感を持っていたと思われます。

また、島津斉彬亡き後、薩摩藩の国父と言われ実質的に薩摩藩の実権を握っていた島津久光も、自分に一向になびいてこない西郷隆盛を嫌悪していたと考えられています。

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島津久光と西郷隆盛の関係2 じごろ

西郷隆盛は、生涯で2度の遠島を経験しています。最初の遠島は奄美大島。1859年に遠島になった西郷隆盛ですが、1861年に赦されて薩摩に戻ります。

当時、薩摩藩において実権を握っていたのは島津久光です。島津久光は兄である島津斉彬の遺志を継ぐべく、幕府に対して公武合体を画策していました。

しかし、そのための人材がいません。そのため、中央政界に名前を知られていた西郷隆盛の力が必要となり、呼び戻すことになりました。

しかし、島津久光が西郷隆盛を呼んだところ、後世にも知られた事件が起こっています。

島津久光に公武合体について問われた西郷隆盛は、次のようなことを述べています。

 

★ 公武合体は島津斉彬の時代の考えとしては適切だったが、今は公武合体の考えは時代遅れである。

★ 島津久光は薩摩藩では国父であるかもしれないが、実際は薩摩藩主ではなく、何の官位官職も持っていない。その程度の人物が要人と会うことは難しく、中央でことをなすことができるはずもない。

⇒ 西郷隆盛は島津久光に「貴方は、ただの三郎どんごわす」と言ったと伝えられています。(三郎は島津久光の通称)

★ 島津久光は京の情勢や江戸幕府内の現状を知らない。それなのに無謀に事を起こそうとするのは「じごろ」である。(じごろとは、薩摩で田舎者の意)

 

島津久光は、流罪となっていた西郷隆盛を呼び戻しました。島津久光は、西郷隆盛に感謝されると思っていたはずです。

ところが西郷隆盛は感謝するどころか痛烈な批判ばかり。当然のことながら島津久光は激怒をします。

このときは西郷隆盛に対しての処分はありませんでした。それは西郷隆盛に対して憎しみはあっても、現実に西郷隆盛の力が必要であったためです。

しかし、その後も西郷隆盛は命令違反を繰り返したため、ついに西郷隆盛は沖永良部島に遠島を命じられます。

ところで西郷隆盛が2度目の遠島となったのは1862年。しかし、早くも1864年には赦されて薩摩に戻ります。西郷隆盛が赦されたのは、もちろん西郷隆盛が必要だったから。

島津久光は、家臣である大久保利通や小松帯刀の説得に応じて、西郷隆盛を薩摩に戻すことに同意をします。もっとも、島津久光は喜んで西郷隆盛を呼び戻したわけではありません。

島津久光は西郷隆盛を呼び戻す決定をしたとき、銀製のキセルを加えていました。その後、そのキセルを見ると、キセルには島津久光の歯型がくっきりと残っていたと伝えられています。

この出来事は、島津久光が西郷隆盛をことのほか嫌っていた逸話として知られています。

さいごに 島津久光と西郷隆盛の関係3 明治維新後


 

 

 

 

 

明治維新後、西郷隆盛が亡くなるまでの間、島津久光と西郷隆盛の関係がどうであったかは定かではありません。

西郷隆盛が島津久光を嫌った原因が多分に感情的なものであったことなどを考えると、2人の関係が明治維新後に大きく改善したというのは考えづらいものがあります。

元々が、藩主の子であり、藩主の弟であり、藩主の父であった島津久光。一方、明治維新の三傑の一人とは言いながらも、薩摩藩においては家臣の一人にすぎなかった西郷隆盛。

幕末維新で成し遂げた功績の大小は別にして、島津久光と西郷隆盛には大きな身分の違いがありました。

少なくとも、島津久光と西郷隆盛が日常的に会っていたとは考えにくいものがあります。また、明治維新後は、島津久光と西郷隆盛が直接的にぶつかるような機会もありませんでした。

そうしたことを考えると明治維新後、島津久光と西郷隆盛の関係が急激に改善したとは考えられないものの、一方ではぶつかることもなかった。

明治維新後の島津久光と西郷隆盛は、疎遠の関係であったのかもしれません。

ところで、島津久光と西郷隆盛には共通項もありました。それは明治政府に対する反感です。

島津久光は明治政府のやり方に強い反感を持っていたと言われています。具体的には廃藩置県や廃刀令。特に廃刀令には強い拒否の態度を示した島津久光は、亡くなるまで髷を蓄え、刀を帯び、和装でとおしたと言われています。

一方の西郷隆盛も明治政府の施策には異論を唱えることが多く、最終的には下野。1877年には西南戦争を引き起こします。

この西南戦争に対して、島津久光は中立を宣言します。もしかしたら島津久光の考えは、西郷隆盛のそれと近かったのかもしれません。

しかし、自らの置かれた立場を考えると西郷隆盛を支援することはできません。西南戦争において島津久光は、最初から最後まで傍観者の立場を取り続けたと言われています。

島津久光と西郷隆盛の関係は決して良好なものではなかったように思えます。少なくとも幕末の段階まではお互いが憎しみ合うほどの関係であったとも考えられます。

しかし、明治維新後はどうだったのでしょうか。島津久光と西郷隆盛の関係は劇的に改善されたわけではないけれど、少なくとも憎しみ合うような関係ではなかった。

そのようにも考えられますが如何でしょうか。

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