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伊東祐親と八重の生涯とは
平安時代の末期に伊東祐親(いとうすけちか、不詳~1182年)という豪族がいました。また、伊東祐親の三女には八重(やえ、生没年不詳)という女性がいました。
この親子の運命を大きく変えたのが源頼朝(みなもとのよりとも、1147年~1199年)です。
結論を先に書くと、源頼朝の存在が伊東祐親と八重の親子を悲劇に導いています。
果たして、伊東祐親と八重の親子はどのような生涯を送ったのでしょうか。
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伊東祐親と八重の運命が暗転するまで
伊東祐親は現在の静岡県伊東市周辺を治める豪族でした。伊東祐親が特徴的であったのは、平氏に近い一族であったことです。1159年の平治の乱で、平氏の棟梁である平清盛は全盛期を迎え、源氏の源義朝は敗者となっただけでなく生涯を閉じています。
源義朝の嫡男源頼朝は命こそ助けられたとは言え、僅か14歳で伊豆国に流罪。
平氏の世が続いていたら、源頼朝は一生を流人として過ごすはずでした。
源頼朝が伊豆国に流されたとき監視役を命じられたのが、当地を治めていて、すでに平氏に近かった伊東祐親です。
伊東祐親は源頼朝の監視をするとともに、ある程度、衣食住の面倒も見ていたと考えられますが、伊東祐親には京都での役割もありました。
それが内裏や御所などの警護を担う大番役で、概ね3年程度が任期の間は、伊東祐親自身が源頼朝の監視をすることはできなくなります。
ところで、伊東祐親には3人または4人の娘がいたとされています。
長女は、後に鎌倉幕府の初代執権となった北条時政の最初の正室で、2人の間には北条政子や北条義時が誕生しています。
次女は三浦義澄の正室、三女は工藤祐経の妻と伝えられています。
そうなると、八重は伊東祐親の四女という可能性もありますが、一般には三女とされています。
八重は嫁ぐこともなく、また美貌の持ち主であったとも言われています。
そこで登場するのが源頼朝です。
源頼朝は流人とはいえ元は源氏の御曹司で、伊豆に来るまでは京の文化や風習に自然に接してきました。
源頼朝は、伊東祐親が大番役で伊豆国にいないことを好機として八重に接近。2人の間には、千鶴丸という男子が誕生します。
大番役の任を終え伊豆国に帰ってきた伊東祐親は、家に見知らぬ幼児がいて、それが源頼朝と八重の子であることを知り「親の知らない婿がいるはずもない」と激怒。
家人に命じて、幼い千鶴丸の命を絶つとともに、八重を江馬の小四郎に嫁がせます。
さらに、源頼朝を襲撃しようと考えますが、これは伊東祐親の次男の伊東祐清(いとうすけきよ、不詳~1183年)が源頼朝に知らせ、源頼朝は北条時政の館に逃げて事なきを得ます。
では、伊東祐親が激怒をした理由は何でしょうか。
伊東祐清が父の伊東祐親を裏切り、源頼朝に知らせた理由は何でしょうか。
巷間、言われていることをご紹介します。
伊東祐親が激怒した理由
伊東祐親が激怒をした理由は何でしょうか。これについては、いくつかのことが考えられます。一つは、大切な娘を伊東祐親が留守の間に源頼朝にとられたことです。源頼朝は、昔は貴種であったかもしれませんが、今は流人にすぎません。
この点は、父が娘を思う一般的な姿であるといえるでしょう。
また、現実問題として伊東祐親は平氏に属する武将で、役割は源頼朝を監視することです。
このことが表ざたになれば、伊東祐親は職務怠慢ということで責められるのは明らかですし、源氏と伊東氏が縁戚になれば伊東祐親の忠誠心も疑われます。
さらに別の説もあります。
それは、源頼朝と八重の間には千鶴丸が誕生していたにも関わらず、源頼朝はすでに北条時政と伊東祐親の長女との間に生まれていた北条政子に接近していたというものです。
この前提としてあるのは、伊東祐親は源頼朝と八重のこと、そして千鶴丸の存在も認めていた。
そして、伊東祐親自身は源氏の御曹司である源頼朝と強固な縁戚関係を築こうとしていたところ、肝心の源頼朝が北条政子に興味を持ち、伊東氏をないがしろにするようになった。
伊東祐親は、源頼朝を諫めるために、あえて自らの孫でもある千鶴丸の命を絶ったというものです。
、
当時の伊東氏の勢力は、北条氏より強かったと考えられています。
さらに、北条時政は義理の息子、北条政子は孫になりますが、伊東祐親は北条氏に対して裏切りを感じたのかもしれません。
こうした諸要因が重なり、伊東祐親は強いくさびを打ち込むために強硬手段に出たというものです。
伊東祐親が激怒をした理由には、いくつかの説がありますが、伊東祐親が千鶴丸の命を絶ったこと、そして源頼朝と深い因縁が生まれたことは確かなようです。
伊東祐清が源頼朝に知らせた理由
伊東祐親が源頼朝の襲撃を考えた時、父の意に反した行動を起こしたのが、次男伊東祐清です。伊東祐清が源頼朝を逃がした理由は、縁戚関係によるものと考えられます。
伊東祐清の妻は、比企尼(ひきのあま、生没年不詳)の三女です。比企尼は、源頼朝の乳母で、流人であった源頼朝の生活を支え続けていた女性として知られています。
比企尼の意向を受け、源頼朝の命を救おうとした可能性は否定できません。
また、伊東祐清が元服するときの烏帽子親は北条時政で、北条時政が伊東祐清の頼みで自らの館を源頼朝に提供したのも不思議ではありません。
さらに、源頼朝と北条政子の関係が影響した可能性もあります。
もっとも、伊東祐清の立場から見ると、次男の伊東祐清だけでなく、義理の息子の北条時政にも裏切られたことになりますし、一連の出来事が将来の伊東祐清の滅亡と、北条時政の隆盛の運命を決定づけたのかもしれません。
なお、理由は定かではありませんが、伊東祐清はこの出来事の後、出家をしています。
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伊東祐親の最期
さて、伊東祐親は八重を源頼朝から引き離し江馬の小四郎に嫁がせとありますが、江馬氏ではなく他の氏族に嫁いだという説もありますし、最期は自害をしたとも言われていて、亡くなったのがいつなのかわかりません。八重が女性であること、源頼朝がまだ流人生活を送っている時代であること、こうした背景から信頼できる記録が残っていないことが最大の理由ですが、八重は源頼朝と伊東祐親によって運命を大きく変えられたことは確かなようです。
1180年、源頼朝は平氏打倒の兵をあげます。
1180年8月の石橋山の戦いでは、平氏方の軍は源頼朝の軍に大勝。しかし、同年11月の富士川の戦いでは大敗を喫し、伊東祐親は捕えられます。
このとき、周囲の武将が伊東祐親の助命歎願をし、源頼朝も認めますが、伊東祐親自身は「以前の行いを恥じて」自害をします。
また、伊東祐親と行動を共にしていた次男の伊東祐清も捕えられます。
源頼朝はかつて命を助けてくれた伊東祐清に罪ではなく恩賞を与えようとします。
しかし、伊東祐清は父の伊東祐親が源頼朝の敵となっているので、息子である自分が恩賞を受けるわけにはいかないと固辞し、源頼朝の元を立ち去ります。
その後、伊東祐清は平氏の軍に属し、1183年に討死します。
さいごに
伊東祐親は平氏に近かったとはいえ、地盤としていたのは京から遠く離れた伊豆国です。通常であれば、平氏と源氏の闘争の場に巻き込まれるような立場ではありませんでした。それが、源氏の御曹司が伊豆国に流人として送られてきて、監視の任を与えられた。
平氏の隆盛は短期間で終わり、流人生活で一生を送るはずだった源頼朝にも強い光が差し込んできた。
しかし、伊東祐親自身は源頼朝の勢いに便乗することができず、むしろ敵対をしてしまった。
こうしたいくつかの偶然の要素が重なり、伊東祐親や八重、そして伊東祐清は非業の最期を遂げてしまったといえそうです。
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