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川口雪蓬と西郷隆盛や西郷家との関係を簡単にご紹介します

川口雪蓬が配流された奄美大島
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はじめに

川口雪蓬(かわぐちせっぽう)は、決して知名度の高い人物ではありませんし、それほど多くの記録が残されているわけでもありません。

ただ、西郷隆盛や西郷家と川口雪蓬との関係は深いものであったようです。そこで、この記事では川口雪蓬と西郷隆盛や西郷家との関係について簡単にご紹介をしていきます。

まず最初に、川口雪蓬と西郷隆盛の生没年についてご案内をしていきます。

 

川口雪蓬 1819年~1890年(明治23年) 享年73

西郷隆盛 1828年~1877年(明治10年) 享年49

 

川口雪蓬は西郷隆盛よりも約10年の年長で、西郷隆盛よりも長命を保っていたことがわかります。

なお、川口雪蓬の名前は川口量次郎、川口雪蓬となったのは1872年(明治5年)のことですが、この記事では川口雪蓬の名前で記事を書き進めていきます。

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川口雪蓬と西郷隆盛の出会い

川口雪蓬と西郷隆盛の出会いは1862年(文久2年)、場所は沖永良部島です。

では、2人はどうして沖永良部島で出会ったのでしょうか。

川口雪蓬の父は江戸詰めの薩摩藩士で馬廻役に就いていました。決して身分が低かったわけではありませんが父が不祥事、その後、兄も不祥事を起こしたため連座して沖永良部島に流罪をされています。

川口雪蓬がいつ沖永良部島に流罪になったのかは定かではありませんが、西郷隆盛よりもずっと前より沖永良部島に居住していたと考えられています。

もっとも、川口雪蓬が流罪になったのは連座ではなく、島津久光に仕えていた時に藩の書物を横流しして、得たお金で焼酎を飲んでいたことが露見して流罪になった。

あるいは、川口雪蓬は特に罪を犯してはいなかったが、西郷隆盛を慕って沖永良部島に追いかけていったという説もあります。

ただ、この説だと沖永良部島の出会い以前に西郷隆盛と川口雪蓬には接点があった可能性も高くなりますが、後世、歴史に名を残す西郷隆盛もこの時点では無名の存在。

確かに島津斉彬に見いだされて薩摩藩内だけでなく京都などでも知られた存在になりつつありましたが、かといってその活躍ぶりはまだ限定的で、しかも主君である島津斉彬の急死によって立場は一転しています。

果たして、年長の川口雪蓬が西郷隆盛を慕うほどのことがあったのかについては、少しばかり疑問が残るところです。

一方の西郷隆盛は、沖永良部島で過ごした約2年はその人生の中でも最悪の時期だったのかもしれません。

西郷隆盛は生涯で2度の流罪にあっています。もっとも、最初の流罪は罪を犯したというよりも江戸幕府から西郷隆盛を守るためという趣旨もありました。

しかし、2度目の沖永良部島への流罪はまさに罪を問われてのもの。

当時、薩摩藩の実権を握っていたのは前藩主島津斉彬の弟であり、現藩主島津忠義の父である島津久光です。しかし、西郷隆盛は亡くなった島津斉彬を敬愛し、実質的に薩摩藩の権力を握っていた島津久光のことはまったく評価をしていませんでした。

島津久光はそもそも自分になびいてこない西郷隆盛を嫌っていましたが、それだけでなく島津久光の命令にことごとく背いてきます。

激怒した島津久光は西郷隆盛を流罪に処しますが、むしろ切腹などを命じられなかったのが不思議なほど。そのような経緯があっての流罪なので、沖永良部島での生活はまさに罪人そのもの。沖永良部島での生活は当初劣悪を極めていたと伝えられています。

川口雪蓬も西郷隆盛も罪人として沖永良部島で日々を送ります。ただ沖永良部島の周囲は海でここから逃げることは不可能。そのため罪人同士であっても交流は容易にできたようです。

さて川口雪蓬ですが、元々は良家に生まれたので漢詩など学識豊かで、書も得意としていました。一方、大酒のみで性格は偏屈といわれていました。

川口雪蓬と西郷隆盛の出会いがいつのころであるのかわかりませんが、暇を持て余した川口雪蓬が西郷隆盛に議論をふっかけ、それを西郷隆盛が受け入れた。出会いの時期ははっきりとしないものの、出会いの経緯は、こうした説が有力です。

西郷隆盛は多くの人に慕われていますが、その大きな要因は度量の広さ。川口雪蓬のような人物はなかなか他人には受け入れられないものですが、西郷隆盛はむしろ川口雪蓬の学識の深さに心を打たれたようです。

西郷隆盛は沖永良部島での流人時代に川口雪蓬と意気投合し、書や漢詩などを教わっています。また2人の間では、先に薩摩に戻れた者が、後に赦免された者の面倒を見るという約定が交わされたそうで、この約束は実際に守られることになります。

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西郷家に居候をする川口雪蓬

西郷隆盛は1864年(元治元年)に赦免され薩摩に戻ります。川口雪蓬も1865年(慶応元年)に赦免されますが、これは西郷隆盛の尽力によるものと考えられています。

川口雪蓬は赦免され薩摩に戻りますがほどなくして西郷家を訪ね、そのまま西郷家に住むようになります。

西郷家の当主は西郷隆盛。しかし、西郷隆盛は薩摩にいることはほとんどありません。川口雪蓬は西郷家の食客となり、西郷家の留守を守り対外的な役割を担うとともに、西郷家の子弟たちの教育係を務めることになります。

さて、西郷隆盛は明治維新になり新政府の高官となりますが、明治6年の政変で下野。その後、1877年(明治10年)には心ならずも西南戦争の中心人物に祭り上げられてしまいます。

ところで、西郷隆盛には3人の弟と4男1女がいました。

3人の弟をご紹介すると

 

★ 次男 西郷吉次郎 ⇒ 1868年の戊辰戦争で戦死

★ 三男 西郷従道 ⇒ 西南戦争では政府側につく

★ 四男 西郷小兵衛 ⇒ 兄の西郷隆盛とともに西南戦争に従軍

 

西南戦争当時、西郷隆盛を含め3人の兄弟は西郷家を離れていたことがわかります。

次に西郷隆盛の子供のうち男子の状況を見ると

 

★ 西郷菊次郎 ⇒ 父の西郷隆盛とともに西南戦争に従軍

★ 西郷寅太郎は10歳

★ 西郷牛次郎と西郷酉三はさらに年少

 

西郷家には西郷隆盛の3人の男子が残っていましたが、これは従軍できる年齢に達していなかったため。西南戦争当時、西郷家には家の中心となる男子は一人もいませんでした。

そこで、実質的に西郷家を支えたのが川口雪蓬。川口雪蓬は、西郷家とは何の血縁関係がなかったのにも関わらず、必死に西郷家を支え続けたといわれています。

さいごに 西南戦争後

鹿児島にある西郷隆盛像
西南戦争により西郷隆盛は生涯を閉じます。また、西郷隆盛の弟である西郷小兵衛も戦死をします。

さらに、西郷隆盛の子でただ一人従軍をしていた西郷菊次郎は戦闘で右足を切断します。この時、西郷菊次郎の義足の手配に奔走をしたのが川口雪蓬です。

また、西南戦争について言えば、西郷隆盛死没後に建立された鹿児島県南州墓地の西郷隆盛の墓碑銘は川口雪蓬の書によるものです。

前述のとおり、川口雪蓬は1890年(明治23年)に病没します。川口雪蓬が埋葬されたのは西郷家の墓地。沖永良部島での出会い以降、その死後まで西郷家に寄り添った人物。それが川口雪蓬といえそうです。

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