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目次
上杉四天王の由来
この記事では、上杉四天王と言われた4人の武将についてお伝えしていきます。ところで、上杉四天王と言われるようになったのはいつからでしょうか。
上杉四天王は、「上杉将士書上」に記載をされています。
上杉将士書上は上杉家の家臣が1615年に書き表したもの。それが1669年に幕府に提出されることで、上杉四天王という表現もでてきています。
上杉将士書上は、上杉軍役帳の中に出てくる武将たちの略伝をまとめたもので、四天王だけでなく、さまざまな武将が登場をしています。
もっとも上杉将士書上に出てくる武将の中には実在を疑われる武将もいるようで、史料的には信頼性に欠けるかもしれません。
また、上杉四天王という言葉が「上杉将士書上」より以前からあったものなのか、あるいは上杉四天王という言葉が一般的に知られていたものなのかなど定かではありません。
ただ、上杉四天王という言葉があるのは事実。
そこで、この記事では上杉四天王と言われたそれぞれの武将について、簡単にご紹介をしていきます。
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上杉四天王とは
上杉四天王は上杉謙信に仕えた4人の武将です。
まずは、上杉謙信と上杉四天王の生年と没年を記していきます。
上杉謙信 | うえすぎけんしん | 1530年~1578年 |
宇佐美定満 | うさみさだみつ | 1489年~1564年 |
柿崎景家 | かきざきかげいえ | 1513年頃~1574年 |
直江景綱 | なおえかげつな | 1509年頃~1577年 |
甘粕景持 | あまかすかげもち | 不明~1604年 |
一口に上杉四天王といっても、4人の武将の生年や没年については、かなり違いのある事がわかります。
上杉四天王の中では柿崎景家と直江兼綱が生年・没年とも近いものの、宇佐美定満はかなり上、甘粕景持は(生年は不詳ながらも)かなり下であるように思われます。
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上杉四天王といわれた4武将をご紹介します
それでは、上杉四天王と言われたそれぞれの武将の事績を簡単にご紹介します。上杉四天王1 宇佐美定満(1489年~1564年頃)
宇佐美定満は生年こそはっきりとしているものの、それ以外は不明な点が多い謎の人物です。まず、宇佐美定満の父については複数の説があります。
また、亡くなった時期も複数あり、さらには死因も溺死あるいは討死という複数説があります。
宇佐美定満は最初は越後国守護の上杉氏に仕えていますが、その後は越後国で台頭してきた長尾氏に仕えます。
長尾景虎(後の上杉謙信)に仕えたのは1543年以降と考えられ、1550年には戦功があったことが記録されています。
宇佐美定満が上杉謙信に仕えたのは50歳を過ぎてからのことで、当時の感覚でいえばすでに老境に差し掛かっています。
果たして、どれだけの活躍があったのでしょうか。
宇佐美定満の名前を有名にしたのは、江戸時代初期に紀州藩に軍学者として仕えた宇佐美定祐の影響によるものかもしれません。
宇佐美定祐は先祖である宇佐美定満が越後流軍学を編み出し、上杉謙信に軍師として仕えたというようなことを書き記しています。
もちろん、このことが事実であるかどうかは定かでありません。
そのため、上杉謙信の元での宇佐美定満を、武田信玄の元での山本勘助になぞらえる人もいるようです。
山本勘助は武田信玄の軍師と言われていましたが、現在では実在はしたけれど軍師ではなかったというのが定説になっています。
これと同じように、宇佐美定祐は実在はしたけれど軍師ではなかったというものです。
宇佐美定満は上杉四天王の一人に数えられてはいますが、かなり謎の多い人物です。
上杉四天王2 柿崎景家(1513年頃~1574年)
柿崎景家は桓武平氏の大見氏の末裔とされ、その家格は上杉謙信の家臣の中でも際立っていました。また、戦いでの戦術も優れていて、さらには上杉謙信の家臣の中でも一番の猛将と近隣に恐れられる存在でした。
柿崎景家は、長尾為景。次に長尾為景の子である長尾晴景。さらには、長尾晴景の弟である長尾景虎(後の上杉謙信)に仕えます。
柿崎景家を有名にしたのは、上杉謙信と武田信玄の第4次川中島の戦い。
合計5回を数えた川中島の戦いの中でも、第4回川中島の戦いは激戦が繰り広げられたことで知られています。
この戦いで柿崎景家は、八幡原に本陣にしていた武田信玄を急襲。武田信玄を追いつめています。
また、北条氏との関係では敵対関係を改善し、越相同盟を結ぶことに成功しています。
このように上杉謙信の信任がとても篤かった柿崎景家ですが、死因はよくわかっていません。
柿崎景家が織田信長と通じていたことが上杉謙信の知るところとなり、上杉謙信により死罪に処せられた。
このような説があるものの、これを否定する意見もあります。
柿崎景家の最期ははっきりとはしないものの、柿崎景家は一時期の上杉謙信を強力に支えていたことは間違いないようです。
上杉四天王3 直江景綱(1509年頃~1577年)
直江景綱は、長尾氏と敵対していた飯沼氏に仕えていました。その飯沼氏が長尾為景により滅ぼされると、長尾為景に仕えることになります。その後、長尾晴景、長尾景虎(後の上杉謙信)にも仕えています。
直江景綱は、第4回川中島の戦いなどで武功をあげることはあったものの、軍事面よりも内政や外交で手腕を発揮したと言われています。
同時代を生きた柿崎景家が戦いに優れた才能を発揮したのに対して、直江景綱はむしろ内政や外交に手腕を発揮したと考えられています。
直江景綱は上杉謙信の元で晩年まで上杉家の奉行として側に仕えていたとされています。
直江景綱は目立たないながらも、貴重な存在であったのではないでしょうか。
なお、直江景綱が病死をしたときに後継者たる男子がいなかったため、婿養子の直江信綱があとを継ぎます。
その直江信綱も亡くなった後に直江家を相続したのが、関ヶ原の戦いにおいて直江状で有名となった直江兼次です。
上杉四天王4 甘粕景持(不明~1604年)
甘粕景持の生年は明らかではありません。また、甘粕景持は新田源氏の末裔とも言われていますが定かではなく、いつから上杉謙信に仕えたのかについても諸説あるようです。
甘粕景持は戦いに優れた才能を発揮したと言われ、第4次川中島の戦いでは殿軍としてしっかりと役割を果たしています。
また、当時の史料では甘粕景持は勇気も知謀もある侍大将とその活躍ぶりを讃えられています。
上杉謙信亡き後は上杉景勝に仕えます。
上杉景勝の代になると、上杉氏は会津若松に移封。さらに関ヶ原の戦いでは西軍についたことから戦後大きく減封されて米沢に移封。
甘粕景持は最期まで上杉家に従い、米沢の地でその生涯を閉じています。
まとめ
この記事では、上杉四天王について簡単にご案内をしてきました。
ところで、有名な「四天王」としては徳川四天王があります。
徳川四天王は、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政の4人の武将です。
徳川四天王については、それぞれの武将の生年や没年、それぞれの事績などはある程度はっきりと残っています。
また、徳川四天王の中では酒井忠次が若干の年長ですが、4人とも概ね同じ時代を生きています。
一方、上杉四天王はどうでしょうか。
上杉四天王は、宇佐美定満、柿崎景家、直江景綱、甘粕景持と姓名ははっきりとしています。
しかし、宇佐美定満のように実態がつかめない武将がいます。
また、徳川四天王とは異なり、それぞれが活躍した時代も異なっているように見受けられます。
上杉四天王については、少なくとも同時代に活躍した4人の武将というわけではなさそうです。
上杉四天王のことが記されているのは、江戸時代に記述された「上杉将士書上」。
上杉四天王という言葉は、上杉謙信在世時からあったのでしょうか。あるいは、「上杉将士書上」が書かれた時に初めて創られたものなのでしょうか。
もしかしたら上杉四天王の詳細については、永遠の謎なのかもしれないですね。
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