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島津斉彬と篤姫の関係についてわかりやすくお伝えします

はじめに

この記事では、島津斉彬(しまづなりあきら)と篤姫(あつひめ)の関係についてわかりやすくお伝えをしていきます。まずは、島津斉彬と篤姫の略歴についてご案内をしていきます。

島津斉彬の略歴

1809年 薩摩藩第10代藩主島津斉興(しまづなりおき)の長男として生まれる
1851年 島津斉興の隠居に伴い薩摩藩第11代藩主となる
1858年 薩摩にて急死(病死とも毒殺とも伝えられる)

篤姫の略歴

1836年 薩摩藩主島津家の一門である今和泉(いまいずみ)島津家の領主島津忠剛(しまづただたけ)の娘として生まれる
1853年 薩摩藩第11代藩主島津斉彬の養女となる
1856年 右大臣近衛忠煕の養女となったうえで第13代将軍徳川家定の正室となる
1858年 徳川家定死去・島津斉彬死去
1868年 江戸無血開城に尽力する
1883年 病死


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島津斉彬と篤姫の島津一族内での関係

島津斉彬と篤姫は同じ島津氏の一族です。では、この2人は具体的にどのような関係だったのでしょうか。島津斉彬と篤姫の関係を知るには少しだけ時代をさかのぼる必要がありそうです。

薩摩藩第9代藩主に島津斉宣(しまづなりのぶ・1774年~1841年)という人物がいます。

島津斉宣の長男は島津斉興(しまづなりおき・1791年~1859年)で、島津斉興の長男が島津斉彬です。島津斉宣から見たら島津斉彬は孫の一人になります。

また、島津斉宣の第7男が島津忠剛(しまづただたけ・1806年~1854年)で、島津忠剛は今泉家に養子に入ります。その島津忠剛の長女が於一(おかつ、後の篤姫)です。島津斉宣から見たら篤姫も孫の一人になります。

島津斉彬は1809年の生まれ、篤姫は1836年の生まれなので、年齢的には親子でも不思議ではありませんが、実際の島津斉彬と篤姫は従兄弟(いとこ)の関係になります。

島津斉彬と篤姫の関係 篤姫が徳川家定の正室になるまで


 

 

 

 

 

 

 

島津斉彬は島津家の嫡男で薩摩藩の第11代藩主になるべき人物でした。しかし、父である第10代藩主島津斉興とは折り合いが悪く、40歳を迎えても世子(せいし-後継者のこと)のままでした。

もっとも世子であることに変わりはなく、江戸幕府の人質という意味もあり、ほとんどを江戸で送っていました。

ところで、この当時の世の中の状況をみると

 

★ アメリカやロシアなどの外圧が強まっていた

★ 第13代将軍徳川家定は病弱であり政務が執れないばかりではなく後継者も誕生していなかった

★ 老中である阿部正弘は他藩の意見を聞くことに熱心で資質のある人物を求めていた

 

そのような背景もあって、藩主でないのにも関わらず、英邁の噂の高かった島津斉彬は阿部正弘との関係を密にしていきます。

その阿部正弘の力もあって薩摩藩主となった島津斉彬が考えたのが、自分たちの意見をより政務に活かすための方策でした。

そして、出てきたのが将軍の正室を島津家から送り出すことで、そのお眼鏡にかなったのが篤姫です。

島津斉彬には何人もの子がいました。しかし、その多くが夭折して正室にするための女性がいなかったため、従兄弟である篤姫が候補となります。

もっとも島津家の分家では家格としては不釣り合いであるため島津斉彬の養女とし、さらに家格をもう一段引き上げるため近衛家の養女となったうえで、篤姫は徳川家定の正室となります。

では、島津斉彬が篤姫を徳川家定の正室に送り込んだ目的は何でしょうか。

普通に考えれば世継ぎの誕生です。徳川家定と篤姫の間に世継ぎが生まれれば、本来外様の一大名に過ぎない島津家の立場はかなり大きなものになります。

しかし、徳川家定に世継ぎを求めるのは無理だということは周知の事実でした。また、政務を見ることができないばかりではなく、いつまで生きていられるのか。むしろ、そのことのほうが心配をされていました。

阿部正弘や島津斉彬などの立場にしたら

 

★ 外圧が強まっているが徳川家定には対応する能力がない

★ 徳川家定の後継者をすぐにでも作る必要がある

★ 後継者は血縁の濃さよりも能力が求められる

 

島津斉彬が考えていたのは篤姫に世継ぎを求めることではなく、篤姫の力を借りて後継者を早く決めておくということでした。

阿部正弘や島津斉彬が考えていたのは、一橋慶喜(後の徳川慶喜)です。一橋慶喜は徳川御三家の一つである水戸藩の徳川斉昭(とくがわなりあき)の子で、徳川御三卿の一つである一橋家の養子となっています。

一橋慶喜は徳川宗家の血筋からは若干離れてはいましたが、すでに成人し英明さをたたえられていました。一橋慶喜を次の将軍にと押す一派は「一橋派」と呼ばれています。

一方、徳川家定の後継はあくまでも血縁関係に近いものを優先すべきという意見もありました。

具体的な後継者候補は、徳川御三家の紀州藩の徳川家茂(とくがわいえもち)で、後に大老となる井伊直弼(いいなおすけ)が中心のこの一派を「南紀派」と称しています。

当時、幕府の内部においては一橋派と南紀派の勢力が均衡をしていました。

特に能力のある人物を後継にしようと考えていた一橋派は、自分たちの意を含んだ篤姫を徳川家定のもとに送り込み、徳川家定の気持ちを一橋慶喜に向けようとさせていました。

篤姫は徳川家定の正室です。しかし、篤姫は本来は正室として求められる後継者ではなく、夫である徳川家定の気持ちをコントロールさせるために送り込まれたもののようです。

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島津斉彬と篤姫の関係 徳川家定が亡くなるまで

篤姫は気丈でかつ聡明な女性であるといわれていました。そのため、自分の役割をしっかりと理解しており、義父である島津斉彬の意向に沿う形で、一橋慶喜を後継者にするための尽力を続けていました。

もっとも、肝心の徳川家定は一橋慶喜のことをとても嫌っていたといわれています。また、大奥も全体としては一橋慶喜の父である徳川斉昭を嫌っていて、一橋慶喜も人気がなかったといわれています。

尽力を続けていた篤姫ですが、篤姫が正室となってから徳川家定が亡くなるまではわずか2年弱。

また、徳川家定に続いて、一橋派の中心人物の一人であった義父の島津斉彬の急死をもって、篤姫の役割は一旦の終了を見ます。

結果的に、徳川家定の後継者は南紀派の推した徳川家茂になります。

さいごに 篤姫のその後


 

 

 

 

 

 

島津斉彬と篤姫の関係は、島津斉彬の死によって終わりを迎えます。そして、篤姫に与えられた任務もこの時点で終わりを迎えます。

では、その後の篤姫はどのような生涯を送ったのでしょうか。何よりも特筆すべきは江戸幕府が瓦解をするときに見せた活動です。

徳川家定が亡くなった後、篤姫は薩摩に戻ることができました。実際に薩摩藩からもそのような申し出があったようです。しかし篤姫はこの申し出を断り、徳川家の女性としての立場を貫きます。

江戸幕府が瓦解をする当時、大奥で一番の権力を持っていたのは篤姫です。(徳川家定が亡くなったため落飾し、このときは「天璋院」となっています。)

篤姫は徳川方の一員として、官軍側の西郷隆盛などに働きかけ、結果的には江戸無血開城に導いています。

江戸無血開城といえば西郷隆盛と勝海舟の会談が有名ですが、篤姫も江戸の町が火の海になることを避ける働きを見せています。

明治になってからは、特に大奥の女性たちの身の振り方に力を尽くしたといわれています。明治維新を迎えて大奥の女性たちは、立場も収入も失っていますし、今のような退職金もありません。

多くの女性が行き場を失っているところ、篤姫はその救済に尽力をしたといわれています。

徳川家定の正室になるまでの篤姫は、島津斉彬に命令をされた形での活動です。しかし、徳川家定や島津斉彬が亡くなった後の篤姫は自らの意思で徳川家のための活動を図っています。

篤姫が徳川家定の養女となったのは、島津斉彬の子には適した女性がいなかったから。いわば消去法のような形で篤姫は選ばれていますが、実際の篤姫の真価は島津斉彬が亡くなってから発揮されているようです。

そこまでを見越して島津斉彬は篤姫を養女にしたのでしょうか。そんな訳はないと思いつつも、歴史の流れを見るとそのようにも思えてきます。

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