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はじめに
真田幸村といえば、大坂夏の陣で壮絶な死を遂げた武将として有名です。その真田幸村で有名なのが「六文銭」。六文銭は真田幸村の戦いのときの旗印として知られていますが、六文銭は真田幸村というよりも真田氏の家紋。
そこで、この記事では真田氏の六文銭の由来や意味をご紹介していこうと考えています。
真田氏の六文銭の由来とは
六文銭といえば真田氏の家紋で知られていますが、元々六文銭は滋野氏に由来すると言われています。滋野氏は信濃の豪族で、滋野氏の中から海野氏を名乗る一族が生まれます。さらに海野氏の一族から真田氏が生まれたとされています。
このあたりの系譜については定かでない部分もあるようですが、真田氏の祖と言われる真田幸隆(1513年~1574年)は、六文銭を旗印として戦国時代の真っただ中で活躍しています。
真田氏は滋野氏を祖として誕生した一族。その滋野氏は六文銭を旗印として使っていた。
そして真田氏の祖である真田幸隆も、武田氏に臣従したころから六文銭の旗印を使い始めたと考えられています。
真田幸隆が六文銭を使っていたことは確かなようです。
後世、真田氏が使った六文銭の家紋の由来が真田幸隆まで遡るのはどうやら間違いのないところ。
そして、恐らくですが真田氏の使った六文銭の由来はさらに滋野氏まで遡るようです。
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真田氏の六文銭の意味とは
真田氏の六文銭は真田幸隆が使い始め、その子である真田昌幸。さらに真田昌幸の子である真田信幸(真田信之)と真田幸村に受け継がれています。真田昌幸の次男である真田幸村は、大坂夏の陣で討死していますので、ここで六文銭の歴史は止まります。
もっとも、長男の真田信之の家系は江戸時代も大名として残り、こちらの六文銭は引き続き真田氏の家紋として受け継がれていきます。
さて、その六文銭の意味とは。。。
真田氏が六文銭を使い始めたのは真田幸隆の時代。そして、真田幸隆の生きたのは戦国時代。
信濃の小豪族にすぎなかった真田氏が生き残るためには、近隣の有力大名に臣従することが不可欠で、当然のことながら戦いに明け暮れる毎日でした。
戦をする時に何よりも怖いのは死を恐れること。死を恐れていては満足な戦ができるはずもなく、真田氏も生き残ることもできません。
六文銭は真田氏の戦の時の旗印としても有名ですが、その六文銭には深い意味が込められていました。
六文銭には三途の川の渡し賃という意味があります。
人は死ぬと三途の川を渡って彼岸に渡ります。この時に必要なのが彼岸に渡るための料金で、それが六文とされていました。
戦場で旗印は目立ちます。戦う人たちの先に六文銭が見えるということは、とりもなおさず討死をしても渡し賃は用意してあるから、死を恐れずに戦えという意味になります。
ところで、六文銭には仏教の考えが背景にあるようです。
六文銭は正式には「六連銭(ろくれんせん)」というそうです。また、六文銭や六連銭の由来とされているのが六道銭です。
六道は、地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道の6つの道の総称です。人は亡くなると最初に行くのが六道。
この六道にそれぞれ一文ずつ置く必要があり、そのために死者に六文を持たせたというものです。また、六文を置くことにより、死者は清く成仏できるともされています。
お寺のなかには入り口に六体の地蔵(六地蔵)が安置されていることがありますが、これも六道に因んだものなのでしょうか。
六文銭には、基本的には三途の川の渡し賃という意味がありそうですが、この考えはさらに奥深く仏教の考え方に由来するもの。
そもそもあった六道銭の考えを由来として、真田氏の六文銭が誕生したということでしょうか。
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六文銭の価値とは
真田氏の六文銭は三途の川の渡し賃の意味があった。どうやらこれが定説のようです。では、六文銭にはどの程度の価値があったのでしょうか。貨幣の価値は時代によっても変わります。そのため、はっきりとしたことはわかりません。
ただ、類推はできます。たとえば、二足三文、あるいは二八そばです。
二足三文は安い草鞋の値段で二足で三文から生まれたとも言われています。
また、二八そばは2×8で16文。そば1杯の値段が16文とも言われています。
どうやら六文銭の六文は決して高い金額ではなさそうです。
なお、この時代の一文は現在の25円相当という意見もあります。そう考えると当時の六文は現在の150円に相当するとも考えられます。
もっとも草鞋2足で3文、つまり75円は低すぎるような気もします。
また、そば1杯が16文、つまり400円。立ち食いソバならばありだけど、それでも少し安いかな。そんな気もします。
三途の川の渡し賃が六文(150円)は少し安い気もしますが、どうでしょうか。
さいごに
真田氏の家紋で有名なのは六文銭です。もっとも真田氏が六文銭を使ったのは、基本的には戦場のみ。戦国時代、平時は六文銭ではなく「結び雁金」「州浜」など他の家紋を使っていたとされています。
ただ、真田氏といって思い浮かぶ家紋は何といっても六文銭。
真田信之の家系は江戸時代まで残りますが、その頃になると六文銭を定紋として使うようになったとされています。
なお、兄の真田信之も弟の真田幸村も真田氏として六文銭を使っています。その2人が敵味方に分かれたのが大坂の陣。
真田幸村といえば六文銭の旗印が有名ですが、大坂の陣に際して真田幸村は六文銭を使用しなかったと言われています。
これは大坂の陣に際して兄の真田信之から六文銭を使用しないようにと言われていたから。あるいは、真田幸村自身が兄に遠慮をしていたからとも伝えられています。
真田幸村は大坂の陣で討死し、それが後世に名を残す最大の理由になっていますが、真田幸村の人生最大の舞台で六文銭が登場しないのは何か不思議な気もします。
大坂の陣で真田幸村は「赤備え」で臨みます。
赤備えは戦国有数の大名として知られた武田信玄の赤備えが有名。
また、武田氏に倣って徳川四天王の一人である井伊直政も「井伊の赤備え」という精鋭の軍団を作ります。
赤備えとは、武具のすべてを赤く塗ったもので、当時の赤備えは精鋭部隊の代名詞を意味するとされていました。
大坂の陣での真田幸村は死を覚悟して戦いに臨みます。
しかし、その舞台で真田幸村は六文銭の旗印は使わずに、赤備えで敵方に対峙した。六文銭は三途の川の渡し賃ですが、その旗印を使わずに赤備えで臨んだ真田幸村。
赤備えには、三途の川の渡し賃も用意しないで戦った、真田幸村の壮絶な覚悟がにじみ出ているようにも思われます。
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