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目次
足利義昭と織田信長の関係とは
この記事では、足利義昭と織田信長の関係についてお伝えします。足利義昭と織田信長の関係をもっとも簡単に言い表すと、足利義昭は織田信長に追放された人物。
一方の織田信長は足利義昭を追放して、15代続いた室町幕府を終焉に導いた人物です。
足利義昭と織田信長の関係が密接にうかがえるのは、織田信長が足利義昭を追放するまでです。
そこで、2人が出会ったきっかけから追放までをご紹介していきます。
生年 | 没年 | |
足利義昭 | 1537年 | 1597年 |
織田信長 | 1534年 | 1582年 |
足利義昭と織田信長の関係1 足利義昭が将軍になるまで
足利義昭は、室町幕府第12代将軍足利義晴の子として誕生します。もっとも足利義昭は足利義晴の次男。室町幕府の第13代将軍には兄の足利義輝が就き、足利義昭自身は仏門に入ってます。
しかし足利義輝が三好三人衆に暗殺されると、運命が大きく変化していきます。
三好三人衆は第14代将軍に足利義輝の従兄弟である足利義栄を置き、足利義輝の弟である足利義昭を奈良の興福寺に幽閉します。
足利義昭は命こそ長らえたものの、とても不安定な立場に置かれていました。
その足利義昭を救出したのが、三好三人衆と敵対する一色藤長、和田惟政、三淵藤英、細川藤孝などです。
救出された足利義昭は和田惟政の居城に身を置き、足利将軍家の当主になることを宣言しています。
しかし足利義昭自身は兵力を持たず、足利義昭を救出した諸将にしても三好三人衆に敵対するだけの力は持っていませんでした。
足利義昭は積極的な文書外交を繰り広げます。
たとえば、上杉家と武田家の仲介を試みたり、織田氏(織田信長の妹のお市の方)と浅井氏(浅井長政)の婚姻の働きかけを行ったりしています。
足利義昭の目的は、京都の三好三人衆を追い出して、自らが将軍の座に就くことでした。
戦国時代といえども、足利義昭の文書外交はある程度の成果を収めています。
しかし、この時点で足利義昭に呼応する武将は表れていません。
たとえば織田信長も兵をあげてはいますが、隣国美濃国の斎藤達興と抗争中だったため上洛を断念せざるを得ませんでした。
足利義昭は各地を転々とし、1566年には越前国の朝倉義景の元に身を寄せます。
朝倉義景は京の近くにあって勢力もある戦国大名です。
足利義昭が朝倉義景を頼ったのも上洛を期待してのことですが、朝倉義景自身はなかなか上洛しようとしません。
そこで足利義昭が頼ったのが織田信長です。
前回は美濃国との関係で上洛を果たせなかった織田信長ですが、1567年には美濃国を手中に収めています。
1560年の桶狭間の戦い、1567年の美濃国攻略、さらには京都までの道筋にあたる北近江の浅井氏とは縁戚関係にあり、織田信長の上洛を阻害する要因は少なくなっていました。
1568年、織田信長の助力により足利義昭は京都に入ります。
また、第14代将軍足利義栄も病死したことから、同年足利義昭は第15代将軍になります。
なお、この時点での立場は、足利義昭が主君で、織田信長は家臣の一人。そのような関係であったようです。
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足利義昭と織田信長の関係2 対立をするまで
足利義昭と織田信長の関係がもっとも良かったのは、足利義昭が将軍の座に就いた頃です。
足利義昭は、織田信長に「室町殿御父」(むろまちどのおんちち)の称号を与えます。
また、足利義昭が織田信長に出した文書では、織田信長の名前の前に御父と記しています。
足利義昭よりも織田信長の方が年長であることは確かです。しかし、年齢差は3歳程度。
年齢的には兄弟で、父子というような関係ではありません。
足利義昭は織田信長のことを、相当に信頼していたことは確かなようです。
足利義昭は織田信長に恩賞を与えようとします。
その中で織田信長が望んだ和泉国の支配を認めます。和泉国には交易の盛んだった堺があります。
織田信長は実利を求めて、和泉国の支配を望んだものと思われます。
一方、足利義昭が恩賞として考えていた「副将軍」の地位はやんわりと断っています。
このことは、織田信長は実利は望んだか、名誉は望まなかったと考えることができます。
また、足利義昭は将軍になり権威を奮おうと考えていたが、織田信長は足利義昭を傀儡(かいらい)将軍程度に考えていた。
そのため将軍足利義昭、副将軍織田信長というように、明確に上下の関係がわかる立場に身を置きたくはなかった。
真実は分かりませんが、織田信長に足利義昭の下風に立つというような意識はなかったのかもしれません。
足利義昭と織田信長の関係がもっとも良かったのは、足利義昭が将軍の座に就いた頃と書きましたが、すでにこの時点で隙間風が吹いていたようにも見受けられます。
足利義昭は将軍になったことで実際の権力も握ったと考え、盛んに文書外交をします。
一方の織田信長は、将軍はお飾りで天下を武力で統一するのは自分しかいないという自負を持っています。
足利義昭と織田信長の関係はあっという間に悪化していきます。
1569年になると、織田信長は9か条の掟書を足利義昭に突きつけます。翌1570年にはさらに5か条を突きつけます。
この掟書は、足利義昭の行状をいさめるためのもので、足利義昭はこれを受け入れています。
もっとも受け入れることと、守ることは異なります。足利義昭は織田信長に対して、相当の不服を持っていたことは想像に難くありません。
1570年になると、織田信長・徳川家康VS朝倉義景・浅井長政の姉川の戦いが起こります。
姉川の戦いは織田・徳川連合軍の勝利に終わったものの、朝倉義景と浅井長政は引き続き抵抗を続けます。
また、石山本願寺も敵対関係に陥り、伊勢では一向一揆が起こり、織田信長を苦しめることになります。
そこで織田信長は足利義昭に依頼し、朝廷の力を借りて調停に成功します。
しかし、織田信長と足利義昭が協力関係にあったのは、この辺りまでのようです。
織田信長に強い不満を覚えていた足利義昭は、その後は明確に織田信長に敵対するようになっていきます。
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足利義昭と織田信長の関係3 足利義昭が追放されるまで
1571年になると、足利義昭は文書外交をより活発にしていきます。戦国大名としては、前述の朝倉義景や浅井長政。さらに上杉謙信・武田信玄・毛利輝元など。
また、兄の足利義輝を暗殺した三好三人衆や、戦国三大梟雄の一人と言われた松永久秀なども味方に引き入れようとします。
それ以外では、本願寺や比叡山延暦寺にも声をかけ、最終的には織田信長包囲網を作ることに成功しています。
そして決裂を決定的にしたのが、1572年10月に織田信長が足利義昭に対して出した17条の意見書です。
意見書は足利義昭の行状を諫めるものですが、足利義昭にしてみれば織田信長は家臣の一人。
そうした強い自負から、織田信長に対して強い嫌悪感を抱いたものと考えられます。
織田信長包囲網で大きく動いたのが甲斐の武田信玄です。
1572年12月、武田信玄は西に向かい三方ヶ原の戦いで徳川家康を撃破します。
さらに越前国の朝倉義景も京都への侵攻の気配を見せます。
追い詰められた織田信長は、足利義昭に斡旋を依頼し、苦境を脱しようとするものの足利義昭はこれを拒否。
足利義昭と織田信長は明確な敵対関係に陥るとともに、足利義昭も挙兵をします。
しかし、ここで奇跡のような出来事が起こります。
まず、何を思ったのか朝倉義景は越前国に引き上げてしまいます。
また、武田信玄も三方ヶ原の戦い後に亡くなり、甲斐国に戻ります。
周囲が敵ばかりであった織田信長ですが、いつしか強大な敵が不在となり、兵力の少なかった足利義昭を攻め立てます。
もっとも、織田信長は足利義昭を廃することは考えていなかったようで、朝廷の力を借りて和議に持ち込んでいます。
しかし、足利義昭はこの和議をすぐに破棄し、山城国の槙島城に籠ります。
そこを織田の軍勢が包囲。1573年7月に降伏した足利義昭は京都を追放されます。
天下布武の名前の元、畏怖されていた織田信長ですが、さすがに足利義昭を死に追いやるようなことはしていません。
織田信長にしてみれば、足利義昭の利用価値はなく、周辺への影響力も失われている。だから生かしておいても何の差しさわりもないと考えたためでしょうか。
あるいは、15代続いた室町幕府の将軍を死に追いやることは、周囲の影響を考えると決して得策とは言えない。そのように考えたのでしょうか。
何れにしても足利義昭は、追放はされたけれど命は長らえています。
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さいごに その後の足利義昭
足利義昭が追放されたことで織田信長との接点も失われます。では、その後の足利義昭はどのような生涯を送ったのでしょうか。
足利義昭は京都を追放されました。しかし、将軍の地位を失ったわけではありません。
足利義昭は将軍職を辞したわけではありません。また、足利義昭に代わって将軍の座に就いた人物もいません。
京都を追放された足利義昭は各地を転々としながらも、1576年に毛利輝元の元に身を寄せます。
そして、備後国の鞆(とも)での生活を始めます。
もっとも、足利義昭自身はまだ将軍という地位に未練を持っていたようで、ここから各地の大名に相変わらずの文書外交を続けています。
もちろん、これに呼応するような大名が現れるわけでもなく、足利義昭自身に何の実権もなかったものの、これを鞆幕府と称することもあります。
本能寺の変後、台頭したのが豊臣秀吉です。
1585年に豊臣秀吉は関白になりますが、足利義昭自身はまだ形式上の将軍であり続けます。
足利義昭が将軍を辞したのは1588年です。
その後の足利義昭は、1万石の領地を与えられるとともに、豊臣秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)に加わります。
そして1597年、大坂の地で病没しています。
足利義昭は15代続いた室町幕府を終焉に導いた人物として知られています。そのため後世の評価はそれほど高くはないかもしれません。
しかし、僧籍の立場から将軍になった。あの織田信長に敵対しながらも、命を失うことはなかった。
そんなことを考えると、稀有な運命の強さを持っていた人物なのかもしれないですね。
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