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日本史

朝倉義景と織田信長の関係とは!戦国大名の朝倉氏はなぜ滅亡したの

越前国一乗谷の朝倉氏居館跡

朝倉義景と織田信長の関係とは

この記事では、朝倉義景と織田信長の関係をお伝えしていきます。

朝倉義景は織田信長に敗れ、戦国大名としての朝倉氏は滅亡しています。そのため、朝倉義景の評価は決して高いものではありません。

ただ朝倉義景が最期を迎えるまでには、様々な経緯があったのも事実です。

そこで、朝倉義景と織田信長の関係を探るとともに、朝倉義景の織田信長に対する思い、戦国大名としての朝倉氏が滅亡した理由などをお伝えをしていきます。

 
朝倉義景の生没年1533年~1573年
織田信長の生没年1534年~1582年

朝倉義景と織田信長の関係1 接点が生まれるまで

朝倉義景は朝倉氏の第11代当主です。

朝倉氏は越前国の守護斯波氏の元で守護代を務めていましたが、斯波氏に代わって守護大名になり戦国大名としても生き残っています。

朝倉氏は名門であるばかりでなく実力もあり、さらには京都に近いという地理的な優位性も持っていました。

ところで、朝倉義景の元にある人物が庇護を求めてきます。それが後に室町幕府第15代将軍になる足利義昭です。

室町幕府の第13代将軍足利義輝は、家臣の三好三人衆に暗殺されます。

そして、足利義輝の弟の足利義昭は命こそ助かったものの、興福寺に幽閉をされてしまいます。

その足利義昭を救出したのが和田惟政・細川藤孝などの武将です。

一説に、朝倉義景が和田惟政・細川藤孝などと連絡を取り合って、足利義昭救出に力を貸したとも言われていますが、脱出に成功した足利義昭は朝倉義景の許に身を寄せます。

足利義昭が越前国に赴いたのが1565年のこと。

足利義昭は朝倉義景に上洛の催促をしますが、朝倉義景も近隣に敵を抱えていて、容易に上洛できるような状況ではありませんでした。

朝倉義景が腰をあげないことに業を煮やした足利義昭が頼ったのが、尾張国の織田信長です。

当時の織田信長は斎藤龍興を破り美濃国を手中に収めていました。さらに京への道筋にあたる、近江国の浅井長政とは政略結婚で同盟を結んでいました。

そのような状況を見据えたうえで、足利義昭は朝倉義景の元を離れます。

朝倉義景は慰留をしたものの、足利義昭の最大の目標は自らが将軍の座に就くことにあったため、これを拒否。

足利義昭は織田信長を頼ることになります。

足利義昭という存在が、朝倉義景と織田信長の2人の武将を結びつけています。

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朝倉義景と織田信長の関係2 織田包囲網を築くまで

越前国一乗谷の朝倉氏居館跡
1568年、足利義昭は織田信長の力により上洛し、将軍の座に就きます。

このとき織田信長が行ったのは、朝倉義景に対する上洛命令です。

上洛命令を発したのは将軍である足利義昭ですが、明らかに織田信長の思惑です。

織田信長が治めていた美濃国と京都の間には、一部ですが朝倉義景の領地がありました。

美濃国に接していた朝倉義景の領地は、織田信長にとって心地よいものではなく、織田信長には朝倉義景を屈服させたい気持ちもありました。

この命令は2回行われますが、朝倉義景は何れも拒否。織田信長は将軍の命に従わないという理由で越前国に出兵をします。

当初は織田軍が優勢でしたが、織田信長の妹婿である浅井長政が離反し朝倉義景につきます。

このことで織田軍は撤退を余儀なくされます。

織田・徳川軍と朝倉・浅井軍がぶつかったのが1570年の姉川の戦い。

織田・徳川軍は勝利しますが、朝倉・浅井軍に壊滅的な打撃を与えるまでは至りませんでした。

その後、織田信長は三好三人衆や石山本願寺などを敵に回します。さらに朝倉義景や浅井長政も改めて侵攻をしてきます。

困り果てた織田信長は足利義昭の力を借り、朝廷による和睦に持ち込みます。

しかし、この和睦は織田信長にとって一時しのぎ。翌1571年には朝倉義景や浅井長政に対して敵対活動を始めています。

ところで、ここで大きな役割を果たすのが足利義昭です。

足利義昭は織田信長の力によって将軍の座に就きました。足利義昭は織田信長に感謝しますが、蜜月関係はほんのわずかな期間で終わります。

将軍になって政治が行えると考えた足利義昭ですが、織田信長にとって足利義昭は単なるお飾り。

実権はいつまでも織田信長にあったことから、足利義昭は次第に織田信長に不満を募らせていきます。

和睦の時には相当の鬱憤がたまっていたようで、足利義昭と織田信長が協力関係にあったのもここまで。

以降は、足利義昭が中心となり織田包囲網を築いていきます。

朝倉義景と織田信長の関係3 織田包囲網が瓦解するまで

織田包囲網を築いた武将は数多くいますが、代表的なのは朝倉義景・浅井長政、そして武田信玄です。

その中で武田信玄が甲斐国から西上を開始します。

まず、武田信玄がぶつかったのは徳川家康。1572年、武田信玄と徳川家康は三方ヶ原の戦いで対峙し、武田信玄が徳川家康を撃破。

このとき織田信長は京都から居城の岐阜に撤退。織田信長は孤立し、最大の危機を迎えます。

武田信玄は朝倉義景に織田信長攻めを求めます。

仮に朝倉義景が積極的に打って出ていたら織田信長も危なかったといわれていますが、どういうわけか朝倉義景は織田軍を目前に撤退。

織田信長は最大の危機を逃れます。

翌1573年にも武田信玄は朝倉義景に出兵を求めますが、朝倉義景は動くことはありませんでした。

そうこうしているうちに頼りの武田信玄が亡くなります。

武田信玄が亡くなったことで、足利義昭の織田信長包囲網は瓦解しますが、それは朝倉義景にとっての死をも意味していました。

朝倉義景と織田信長の関係4 朝倉氏が滅亡するまで

最大の危機を逃れた織田信長は近江の浅井長政を攻め、朝倉義景は救援に赴きます。

しかし兵力の差は大きく、さらに浅井軍と朝倉軍は分断をされてしまいます。

朝倉義景は越前国に戻りますが、織田軍の追及は厳しく、最期は自害をしています。

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朝倉義景の織田信長に対する思いとは

越前国一乗谷の朝倉氏居館跡
上洛の命令に対して、朝倉義景が二度にわたって拒否をした。朝倉義景の織田信長に対する思いは、このことにつきるようです。

朝倉義景は織田信長を嫌悪していたようですが、果たしてどのような理由があったのでしょうか。

ここでは、考えられることのいくつかをお伝えしていきます。

家格が違った

越前国も尾張国も守護は斯波氏です。

越前国は、守護が斯波氏、守護代は朝倉氏です。また朝倉氏は後には守護になり戦国大名への脱皮を図っています。そして、朝倉義景は朝倉家の第11代当主です。

尾張国は、守護が斯波氏、守護代は織田氏です。ただし、この織田氏は織田信長の家系ではありません。織田信長の家は守護代織田氏の家臣でした。

家格で見たら、朝倉氏の方が織田氏よりもはるかに上です。

戦国大名に成長したとはいっても、守旧的な人物はたくさん存在します。朝倉義景は、織田信長をはるか下に見ていたのではないでしょうか。

また、織田信長は「うつけ者」で有名でした。一方、朝倉義景は有職故実にも通じた人物です。

この点も、織田信長を下に見ていた理由になったのかもしれません。

強烈な嫉妬心があった

足利義昭がまず頼ったのが朝倉義景です。

足利義昭は朝倉義景の元に数年滞在しますが、結果的には足利義昭の上洛の願いをかなえることはできませんでした。

それに対して、足利義昭が朝倉義景の次に頼った織田信長は、あっという間に上洛を果たし足利義昭を将軍の座に就けています。

朝倉義景がこれを面白く思うはずがありません。朝倉義景は織田信長に対して、強い嫉妬心があったと思われます。

戦国大名の戦略としてはいかがなものかと思われますが、朝倉義景が上洛の命令を断ったのは頷けることです。

また、仮に朝倉義景が上洛をした場合。

朝倉義景は織田信長の下風に置かれることは分かり切ったことです。さらに言えば、命を落とす可能性も否定はできません。

朝倉義景は心情的に上洛したくはなかったというよりも、上洛することができなかった。

そんな可能性もあります。

さいごに 戦国大名としての朝倉氏が滅亡した理由とは

この記事の最後に、朝倉義景が攻め滅ぼされ、戦国大名としての朝倉氏が滅亡した理由を少しだけ書いておきたいと思います。

参謀となる人物が存在しなかった

朝倉義景には兄弟がいなかったととわれています。さらに、子はいましたが小さなうちに亡くなっています。

朝倉義景には頼りにする肉親がいませんでした。

もちろん参謀は肉親だけではありませんが、残念ながら朝倉義景には頼りにできるような人物はいなかったようです。

政治をする気がなかった

朝倉義景には子がいましたが早くに亡くしています。

このことは朝倉義景に大きな影響を与えたようで、その後は酒食におぼれ政治を顧みなくなったと伝えられています。

また、越前国は戦国時代にあっても比較的穏やかな場所で、文化的に栄えた場所でした。

朝倉義景は文化人の側面があったといわれていますが、そもそも戦にはあまり積極的ではなかった可能性があります。

家臣が離反した

朝倉義景には参謀となる人物がいませんでした。また、朝倉義景自身も文化人的素養が強く、後半生は酒食におぼれるようなありさまでした。

平穏な時代ならば問題はなかったのかもしれません。

しかし、足利義昭が身を寄せたことで平穏な時代は終わり、さらには織田信長が立ちはだかります。

この時、朝倉義景は無為無策どころか、とった行動のほとんどが敵に利することばかりでした。

そんなことが数多く続き、家臣は離反したと伝えられています。

特に浅井家の救援に赴いた時の軍勢は約2万でしたが、敗れて越前国に戻るとき従っていたのは10人程度。

それ以前から離反する家臣は相次いでいたと言われていますが、最後は家臣のほとんどを失い生涯を閉じています。

まとめ

この記事では、朝倉義景と織田信長の関係を中心に、朝倉義景の最期までをお伝えしてきました。

朝倉義景は敗者なので、歴史上抹殺されて事績が明らかでない部分も数多くあります。

ただ、そのことを差し引いても戦国武将として生き残るのは難しかったのではないか。

そのように思えるのですがいかがでしょうか。

 
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