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足利義輝の最期は壮絶だった!時代背景と戦いの様子を簡単解説

足利義輝が生まれた南禅寺
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足利義輝とは

この記事では、室町幕府第13代将軍の足利義輝(あしかがよしてる)が迎えた、壮絶な最期を中心にお伝えをしていきます。

足利義輝が生まれたのは1536年。

父は室町幕府第12代将軍足利義晴(あしかがよしはる、1511年~1550年)、母は関白近衛尚通の娘(慶寿院)。

足利将軍家である父と、関白家の出身である母の間の嫡男として生まれた足利義輝はまさにサラブレッド。

足利義輝が生まれたのが平穏な時代であれば、将軍として何の苦労もない穏やかな一生を送ることができたのかもしれません。

しかし時は戦国時代。室町幕府の将軍である足利義輝が、平穏な一生を遅れるはずもありませんでした。

足利義輝が最期を迎えたのは1565年。29歳の足利義輝は、暗殺で壮絶な生涯を終えています。

室町幕府では全部で15人の将軍が誕生しています。

その中で暗殺をされたのは、第6代将軍足利義教(あしかがよしのり)と、これからご紹介する足利義輝だけです。

足利義輝はどうして壮絶な最期を迎えたのでしょうか。

この記事では、足利義輝が壮絶な最期を迎えるまでの背景、足利義輝が壮絶な最期を迎えた場面のそれぞれを、簡単にご紹介していきます。

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足利義輝が壮絶な最期を迎えるまでの背景

足利義輝が生まれた南禅寺三門
足利義輝が父の足利義晴より将軍職を譲られたのは1546年。足利義輝11歳の時です。

父の足利義晴は病弱であったわけではありません。

しかし、足利将軍家も屋台骨がぐらついていて、それを脅かす最大の存在が三好長慶(みよしながよし、1522年~1564年)でした。

三好長慶は守護の細川家の下である守護代の家に生まれていますが、細川家をしのぐ権力を有するようになり、戦国大名として成長していきます。

足利義晴は早期に将軍の地位を足利義輝に譲り、権力の世襲を示しておく必要がありました。

また、幼い足利義輝の後見として裏で糸を引き、三好長慶の策謀を抑えようとしたとも考えられています。

もっとも1549年に、三好長慶に攻めたてられた足利義晴・足利義輝は京の地を離れ近江坂本に逃れ、足利義晴は京に戻ることなく1550年に亡くなります。

しかし三好長慶には権力を握りたいという欲望はあったものの、室町幕府を滅亡に追いやろうとまでは思っていなかったようです。

そのため、1552年になると足利義輝と三好長慶は和睦し、足利義輝は京に戻り、三好長慶は幕臣に加わります。

ただ、のし上がってきた三好長慶には、主筋の細川家だけでなく数多くの敵がいました。

また足利義輝にしても、強引に権力を握ろうとしてきた三好長慶とは相いれないものがあったと思われます。

結果的に足利義輝と三好長慶には諍いが生じ、足利義輝は1553年から1558年までの5年間、京の地を離れることになります。

その後、足利義輝は三好長慶と和議を結び、京に戻ります。

三好長慶は幕臣の列に加りますが、長年の対立で感情の齟齬があったのも事実。

三好長慶は家督を三好義興(みよしよしおき、1542年~1563年)に譲り、足利義輝と距離を置くようになります。

三好義興は幕臣の列に加わりますが、この時に三好家の重臣である松永久秀(まつなが ひさひで、1508年~1577年)も同じく幕臣の列に加わっています。

ところで足利義輝はどのような将軍だったのでしょうか。

時は戦国で下克上の時代です。

日本の各地でさまざまな争いが繰り広げられていましたが、足利義輝は将軍として各地で発生する諍いの仲裁にあたっています。

たとえば、九州では島津氏と大友氏、中国では尼子氏と毛利氏、東北では伊達市の内部抗争、関東では北条氏と里見氏、甲信越では武田氏と長尾氏(上杉氏)、東海では今川氏と松平氏。

戦国時代は日本各地で有力大名が群雄割拠して、激しい対立も日常茶飯事でしたが、足利義輝はこれらの抗争に積極的に介入して鎮静化を図ろうとします。

一方、足利義輝と朝廷には深い関わり合いは見受けられません。

足利義輝は室町幕府の将軍、武家の棟梁として全国の有力大名の争いに積極的に介入を試みます。

ところが、同じ京の地にいる朝廷とはどちらかと言えば疎遠でした。

このことから、足利義輝は将軍としての自負がとても強い人物であったと考えられます。

さて、幕府内部で実権を握った三好長慶ですが1564年に病死します。また、家督を譲られた三好義興も三好長慶よりも前に亡くなっています

その後の三好家は三好長慶の甥の三好義継(みよしよしつぐ、1549年~1573年)が跡を継ぎますが、足利義輝にとって最大の障壁であった三好長慶の死は絶好の機会。

足利義輝は、将軍としてますます力を強めていこうと画策します。

一方、三好三人衆と、主家の三好家の権勢をしのぐようになっていた松永久秀にとって、将軍の権力が増大することは決して望ましいことではありませんでした。

そこで、三好三人衆と松永久秀は、足利義輝を廃し、足利義栄(あしかがよしひで、1538年~1568年)を将軍にしようと画策。

1565年、三好三人衆と松永久通(まつながひさみち、松永久秀の子)が1万人の軍勢を率いて、足利義輝がいる二条御所(現在の真如堂-しんにょどう付近)に攻め込み、足利義輝は壮絶な最期を迎えます。

※ 三好三人衆とは、三好家を支えた重臣のことで、三好長逸・三好宗渭・岩成友通の3人です。
 
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足利義輝が壮絶な最期を迎えた場面

足利義輝は1万人の軍勢に攻め込まれ壮絶な最期を遂げます。ただし、足利義輝は無抵抗だったわけではありません。

足利義輝は剣術の腕前が確かなことで知られていました。

足利義輝の剣術の師匠は剣豪として名をはせていた塚原卜伝(つかはらぼくでん、1489年~1571年)で、塚原卜伝も足利義輝の剣術の才能を認めていたと言われています。

また将軍である足利義輝の手元には、歴代の将軍が伝えてきた名刀がいくつもありました。

敵が迫っていることを知った足利義輝は、数々の名刀を畳に突き刺し、敵を迎えます。

足利義輝は剣術の腕は確かでしたが、一本の刀で斬れる人数には限りがあります。

名刀でもそれは同じ。足利義輝は刀が刃こぼれして使えなくなると、畳に突き刺した新たな刀で向かってくる敵に対抗します。

一説に、足利義輝は数十人の敵を倒したと言われています。

もっとも多勢に無勢。

最期は敵方が畳を盾にして足利義輝を抑え込み、足利義輝は壮絶な最期を迎えます。

まとめ

足利義輝が亡くなった二条御所(現在の真如堂付近)
この記事では、室町幕府第13代将軍足利義輝が壮絶な最期を迎えるまでの背景、足利義輝が壮絶な最期を迎えた場面のそれぞれを、簡単にご紹介してきました。

足利義輝は将軍としての自負が強かったため、特に各地で争う大名などの仲介を行うなど、積極的な政治姿勢をとり続けてきました。

もっとも足利義輝自身の権勢は弱く、実権は三好氏や松永氏が握っていたため、三好氏などに離反され壮絶な最期を迎えます。

また足利義輝は剣豪としての自負も強烈であったため、最期まで多くの敵と渡り合っています。

足利義輝は逃げることもできる状況であったとも伝えられていますが、足利義輝に逃げるという選択肢などなかったのではないか。

そんな気がします。

足利義輝が壮絶な最期を迎えた後は、三好氏に担がれた足利義栄が第14代将軍になるものの、間もなく病死。

その後は織田信長に担がれた足利義昭が第15代将軍になるものの、実権は織田信長に握られ、最後は織田信長と反目し追放。

室町幕府はここに滅亡をします。

そのことを考えると足利義輝は室町幕府の中では、最後の将軍らしい将軍だったと言えるのではないでしょうか。

 
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