スポンサーリンク
目次
お市の方と織田信長の関係をご紹介
戦国時代、尾張国下四郡の守護代に仕えた武将に織田信秀という人物がいました。織田信秀は正室と側室の間に14人の子を設けますが、嫡男が織田信長で、その妹がお市の方です。
織田信長もお市の方も、母は織田信秀の正室である土田御前と伝えられています。しかし年齢差は13歳と年の離れた兄妹であったようです。
織田信長は面長で目鼻立ちの整った肖像画が今でも残っていますが、織田家は美形の家系であったようで、お市の方は戦国一の美女として知られています。
ただ、お市の方の生涯は順風満帆とは程遠く、兄の織田信長に翻弄された人生であったようです。
この記事では、お市の方と織田信長の関係。そして、お市の方の生涯についてお伝えします。
■合わせて読みたい
お市の方と織田信長の関係1 浅井長政に嫁ぐまで
織田信長の生年は1534年。お市の方の生年は1547年。
父は織田信秀で、母は正室の土田御前と伝えられています。
お市の方が生まれた尾張国の守護は斯波氏で、尾張国は上四郡と下四郡に分かれ、それぞれ別系統の織田氏が守護代を務めていました。
織田信秀は下四郡守護代の織田氏に仕える一武将にすぎませんでしたが、めきめきと頭角を現していきます。
織田信長が生まれたころは、織田信秀が徐々に勢力を伸ばし始める時期。
お市の方が生まれたころは、下四郡守護代の織田氏に仕える武将という立場でありながらも、隣国の斎藤氏や今川氏と争うまで力を伸ばしていた時期にあたります。
しかし、織田信秀は1552年に急死。
その後、織田家では相続争いが起こりますが、結果的には織田信長が勝利し家督を相続します。
織田信長は尾張国統一に向けて動き始めますが、その途中に起こったのが1560年の桶狭間の戦いです。
桶狭間の戦いで大勝利を収めた織田信長は、1565年に尾張国統一を果たすとともに、隣国の美濃国の攻略に乗り出します。
もっとも美濃国は大国。
一筋縄ではいかないと考えた織田信長は、あることを実行に移します。
それは、同じく美濃国と国境を接する、北近江の戦国大名浅井氏との同盟関係を構築することでした。
浅井氏の当主は浅井長政です。
浅井長政の生年は1545年で若い当主であるばかりでなく、お市の方との年齢とも釣り合いが取れていると考えた織田信長は、お市の方と浅井長政の政略結婚を画策。
浅井氏側には異論があったものの、お市の方は浅井長政の元に輿入れし、両家は同盟関係を構築します。
諸説あるものの、その時期は1567年の頃と考えられています。
スポンサーリンク
お市の方と織田信長の関係2 浅井氏が滅亡するまで
当時の政治の動きを見ると、お市の方が浅井長政に嫁いだ概ね同じ時期に、織田信長は美濃国を手中に収めることに成功。
その後、織田信長を頼ってきた足利義昭とともに上洛し、足利義昭を室町幕府第15代将軍の座に就かせています。
織田信長が上洛を開始したのは1568年で、このとき同盟関係にあった浅井長政も上洛戦に協力しています。
ところで、政略結婚により浅井長政に嫁いだお市の方ですが、浅井長政との関係は良好だったようです。
お市の方と浅井長政の間には、3人の女児が誕生します。
この3人を浅井三姉妹と称することもありますが、最初の子が茶々で1569年の生まれ。
次の子が初で1570年の生まれ。そして三番目の子が江で1573年生まれになります。
お市の方と浅井長政の夫婦仲は良かったようですが、浅井氏と織田氏の関係は悪化をしていきます。
京都上洛を果たした後、織田信長は越前国の戦国大名である朝倉義景に対して上洛の命令を発します。
朝倉義景がこれを拒否したことにより、織田信長は朝倉義景の征討に向かいます。
ここで問題になるのは浅井氏です。
浅井氏は織田氏と同盟関係を構築しています。
しかし戦国大名と言っても、それほど強い勢力を持っていなかった浅井氏は、ずっと以前から朝倉氏とも友好関係を結んでいました。
浅井長政とお市の方の婚姻の条件の中にも、織田氏は朝倉氏を攻めないという一文があったほどです。
しかし織田信長はその約束をあっさりと反故にして朝倉氏を攻めます。
浅井氏の当主は浅井長政で、お市の方との婚姻により織田氏とは同盟関係にあります。
しかし浅井長政の父で前当主の浅井久政は、むしろ朝倉氏との関係を大切にし、結果的には織田氏との同盟関係を破棄して朝倉氏と手を結びます。
浅井長政と織田信長が袂を分かったのは1570年の頃で、初が生まれた年です。
その後、1573年に江が生まれたことを考えると、お市の方と浅井長政の関係は引き続き良好であったことがうかがえます。
朝倉氏と浅井氏が手を結んだだけでなく、この時期は織田信長と反目するようになっていた足利義昭が中心となり、織田信長包囲網を築き上げます。
織田信長の生涯の中でもっとも苦しい時期であったと思われますが、次第に事は織田信長有利に動いていきます。
1573年になると織田信長は浅井長政居城の小谷城に押し寄せ、浅井久政・浅井長政親子を自害に追い込み、戦国大名としての浅井氏は滅亡します。
夫を失ったお市の方ですが、三人の女児と共に生きながらえ、織田信長の庇護を受けるようになります。
兄の織田信長の命令で浅井長政との政略結婚を受け入れたお市の方。
浅井長政とは幸せな日々を送ったものの、最後は最愛の夫を兄に奪われたお市の方。
この時点でも、兄の織田信長に翻弄されたお市の方の運命を垣間見ることができます。
■合わせて読みたい
スポンサーリンク
お市の方と織田信長の関係3 お市の方が最期を迎えるまで
夫を失ったお市の方ですが、その後は3人の子供と共に織田信長の手厚い保護を受けます。しかし、その生活も約9年で終わりを迎え、1582年の本能寺の変で兄の織田信長を失います。
その後に起こったのが織田信長の後継者選びでは、羽柴秀吉と柴田勝家の主導権争いが明確になります。
羽柴秀吉は、織田信長を倒した明智光秀を山崎の戦いで葬り去ります。
柴田勝家は織田家譜代の家臣で、織田家の中では筆頭の地位を保っていました。
織田信長の後継者争いは、織田信長の孫を推した羽柴秀吉に軍配が上がります。
しかし、勝ちっぱなしはいけないと考えた羽柴秀吉は、柴田勝家に有利ないくつかの条件を提示。
その中の一つが、柴田勝家がお市の方を正室に迎え入れるというものでした。
このあたりの心の動きは分かりませんが、柴田勝家は主君の妹で絶世の美女と言われていたお市の方を迎え入れたかったのかもしれません。
そんな可能性はあります。
一方、お市の方の心情は分かりませんが、庇護者であった兄の織田信長を失ったことで、自らも三人の子供の立場も不安定になったと考えたのかもしれません。
本能寺の変の数か月後には柴田勝家の正室に迎え入れられ、お市の方は三人の子供と共に柴田勝家の居城である北ノ庄城で生活するようになります。
もっとも、羽柴秀吉と柴田勝家は元々が犬猿の仲。二人が決定的な対立をするのも時間の問題でした。
1583年になると、羽柴秀吉と柴田勝家は賤ヶ岳の戦いで対決。勝利した羽柴秀吉は北ノ庄城まで攻め込み、柴田勝家を自害に追い込みます。
また、お市の方も柴田勝家と共にその生涯を閉じています。
お市の方が柴田勝家と再婚をしたのは、織田信長が亡くなった後のことで、織田信長は関与していません。
しかし、この再婚は織田信長亡き後の主導権争いの結果生まれたものであることは間違いありません。
織田信長は生きている間だけでなく、亡くなった後もお市の方の運命に大きな影響を与えたと言えるのではないでしょうか。
■合わせて読みたい
さいごに お市の方が亡くなった後
お市の方は享年37で生涯を閉じていますが、三人の子供はその後も生きながらえています。
長女の茶々は後に羽柴秀吉(豊臣秀吉)の側室となり、豊臣秀頼を産んでいます。
次女の初は大名京極高次に嫁いでいます。
三女の江は三度目の結婚で徳川秀忠の正室になり、江戸幕府第三代将軍となる徳川家光を産んでいます。
茶々は淀殿となり豊臣秀頼を産んだものの、1616年の大坂夏の陣で徳川氏に攻められ亡くなります。
初と京極高次の間に子は産まれませんでした。
しかし、江は江戸幕府第三代将軍となる徳川家光を産み、その血脈は今に続いているといわれています。
織田信長が兄であったがため、お市の方は不思議な運命をたどりました。また絶世の美女と言われていたために、後世まで名前を残しています。
お市の方の心情を示したものは残されていません。果たしてお市の方はどのような心持で生涯を過ごしたのでしょうか。
■合わせて読みたい
スポンサーリンク
スポンサーリンク