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忠臣蔵の真実は何かを大特集!4場面をわかりやすくご案内

はじめに

この記事では、忠臣蔵の真実は何かを大特集。

具体的には、忠臣蔵の真実を4つの場面に分けて、わかりやすくご案内していきます。

今でも、毎年12月14日頃になると忠臣蔵の話題が出てきます。

それは、赤穂浪士が元禄15年12月14日に吉良邸に討ち入り、吉良上野介を討ち果たした日だからです。

この年月日は旧暦に基づくものなので、現在の月日とは異なっていますが、それでも12月14日になると各所で忠臣蔵に関連した様々なイベントが催されています。

ところが、忠臣蔵についてはフィクションが多く、真実を伝えてはいないという話も聞こえてきます。

そこで、この記事では次の4つの場面に分けて、忠臣蔵の真実をわかりやすくお伝えしていきます。

 

第1の場面 忠臣蔵に真実はあるの

第2の場面 松の廊下事件の真実とは

第3の場面 赤穂浪士討ち入りの真実とは

第4の場面 赤穂浪士討ち入り後の真実とは

 

ぜひ、最後までお読みください。

第1の場面 忠臣蔵に真実はあるの

赤穂浪士が吉良上野介を討ち果たした段階では、忠臣蔵という言葉はまだ生まれていません。

忠臣蔵という言葉が生まれたのは「仮名手本忠臣蔵」が元になっています。

赤穂浪士が吉良上野介を討ち果たしたのは元禄15年。

西暦で表すと1703年になります。

一方、仮名手本忠臣蔵は歌舞伎や人形浄瑠璃の演目の一つとして創られたもので、初演は1748年です。

赤穂事件後、約半世紀後に生まれたのが忠臣蔵の物語です。

また、仮名手本忠臣蔵の時代設定は室町時代。もちろん、浅野内匠頭や吉良上野介という名前が登場することもありません。

仮名手本忠臣蔵は赤穂浪士の討ち入りを題材にしていて、大枠では真実も含まれてはいますが、基本的にはフィクションの物語と言われています。

その後、多くの作家によって忠臣蔵は創られていますが、こちらについてもフィクションを中心に物語が構成されています。

現在の時代劇で人気を博するのは「勧善懲悪」ですが、江戸時代もそれは同じであったようで、善と悪の対立が必要でした。

そこで設定されたのが、浅野内匠頭や赤穂浪士は善で、吉良上野介は悪という立場です。

果たして、浅野内匠頭や赤穂浪士は善で、吉良上野介は悪というのは真実だったのでしょうか。

 

「忠臣蔵に真実はあるの」のポイント

赤穂事件後、約50年の時を経て忠臣蔵の物語は生まれたので真実はわからない。

仮名手本忠臣蔵の時代設定は室町時代で、登場人物も架空であった。

忠臣蔵の物語には、真実とは関係なく善と悪の役割分担が必要だった。

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第2の場面 松の廊下事件の真実とは

忠臣蔵の事件の発端は、元禄14年3月14日の松の廊下事件です。

松の廊下事件は、江戸城内の松の廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に切りかかった事件です。

吉良上野介は傷を負ったものの軽傷で済み、取り押さえられた浅野内匠頭は即日切腹を命じられています。

松の廊下事件の原因として言われているのは、浅野内匠頭の吉良上野介に対する恨みです。

幕府より勅使饗応役を命じられていた浅野内匠頭は、その指南を吉良上野介に依頼。

しかし、浅野内匠頭は吉良上野介にお礼の金品を渡さなかった、あるいは少額であったことから、吉良上野介は気分を害して、饗応の方法を教えなかった、あるいは間違えて教えた。

結果として、浅野内匠頭は松の廊下で吉良上野介に対して刃傷に及んだと言われています。

忠臣蔵の物語構成において松の廊下事件はあまりにも有名ですが、ここにある真実は浅野内匠頭が吉良上野介に対して刃傷に及んだという点。

あと、吉良上野介は軽傷で済んだことと、浅野内匠頭が即日切腹を命じられた点。

松の廊下の真実は、この程度と言われています。

まず松の廊下ですが、当時の松の廊下は幅が狭く、刃傷事件を起こせる場所ではなかったようです。

浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけたのは真実としても、その場所は松の廊下ではなく、江戸城内の別の場所であったと言われています。

また、吉良上野介がきちんと指南しなかったという点ですが、浅野内匠頭が饗応に失敗して処罰されるのは浅野内匠頭だけではありません。

当然、指南をした吉良上野介も処罰の対象になります。

吉良上野介が教えなかった、あるいは間違ったことを教えたというのは考えづらいとこです。

また、指南が必要だったのかという点についても疑問が残されています。

浅野内匠頭が勅使饗応役を命じられたのはこの時が初めてではなく、それ以前の1683年にも勅使饗応役を務めています。

以前に経験があるのであれば、浅野家の記録にも残っていたはずで、果たして指南を仰ぐ必要などあったのでしょうか。

少なくとも浅野内匠頭には勅使饗応役に対する知識はあったはずです。

ところで、当時の吉良上野介や浅野内匠頭の評判はどうだったのでしょうか。

吉良上野介が領有していたのは現在の愛知県西尾市ですが、今でも吉良上野介は名君であったと慕われているそうです。

一方の浅野内匠頭はどうだったのでしょうか。

領主としての評判はさておき、浅野内匠頭には精神的な疾患があったと伝えられています。

医学の発展していなかった時代なので病名ははっきりとしないものの、肉親でさえ浅野内匠頭は怒りっぽいと嘆いています。

そして、勅使饗応役というのはストレスのたまる仕事。

どうやら松の廊下の刃傷事件は、これといった理由があるわけではなく、精神的に追い詰められた浅野内匠頭が突発的に及んだ犯行と言えそうです。

忠臣蔵での松の廊下事件はあまりにも有名ですが、浅野内匠頭が刃傷に及んだ場所も理由も真実ではないと考えられています。

 

「松の廊下事件の真実とは」のポイント

松の廊下で、刃傷事件を起こすことは不可能だった。

浅野内匠頭は、吉良上野介に意地悪をされているわけではなかった。

浅野内匠頭には、勅使饗応役に対する知識があった。

浅野内匠頭には、精神的な疾患があった。

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第3の場面 赤穂浪士討ち入りの真実とは

大石内蔵助像



 

 

 

 

 

 

 

 

松の廊下事件の後、吉良上野介は隠居をすることになったものの処分はなし。

一方の浅野家は浅野内匠頭の切腹だけではなく、浅野家そのものの取り潰し。

喧嘩両成敗のはずなのに、浅野家だけ厳しい処分が下された。

これが原因となって、赤穂浪士は吉良邸に討ち入りをしたと言われています。

この中で、赤穂浪士は吉良邸に討ち入りをした部分は真実でも、それ以外は真実とは程遠いという意見があります。

まず、喧嘩両成敗の件です。

これについては2つの疑問があります。

まず1つ目は、松の廊下事件は浅野内匠頭が一方的に起こした突発的事件であり、吉良上野介に非はなかったという点です。

これが真実だとすれば、松の廊下事件はそもそも喧嘩と言えるようなものではなく、喧嘩両成敗と言う考えが思い浮かぶことはないはずです。

2つ目は、刃傷事件に関することです。

江戸時代を通じて、江戸城内の刃傷事件は他にもありましたが、乱心が理由の場合は本人の切腹までは仕方ないとしても、藩の取りつぶしまでは至らないのが原則でした。

乱心は不可抗力です。

一方、遺恨など乱心以外の理由があった場合、江戸城内で刀を抜けば江戸幕府に対する謀叛に通じるという理由になり改易は免れないところです。

つまり、赤穂藩が浅野内匠頭は乱心で刃傷事件を起こしたと主張すれば、少なくとも改易には至らなかった可能性が高いと考えられます。

ところが、赤穂藩は浅野内匠頭の乱心を否定しました。

江戸幕府は浅野内匠頭の切腹ですまし、藩の取りつぶしまでは考えていなかったとも言われていますが、肝心の赤穂藩が乱心を否定したため、仕方なく改易にしたと言われています。

言い換えれば、赤穂藩は自らの意志で成敗を望んだということになります。

このような点を考えると、喧嘩両成敗でなかったことを不満に思って討ち入りが行われたというのは、真実から少し離れているように思われます。

赤穂浪士の吉良邸への討ち入りは主君の仇を取るためのもの。

この点については真実かもしれません。

しかし、喧嘩両成敗に対する不服が討ち入りの原因ではないようです。

では、何が討ち入りの真実だったのでしょうか。

一番わかりやすいのは、主君の仇を取るためのものですが、これ以外にも言われていることがあります。

それは、大局的に見れば経済的困窮です。

赤穂藩が取り潰されたことで、赤穂藩士は赤穂浪士となります。

当然、収入の道も途絶えて生活が成り立たなくなります。

これ以上時間を費やすと、蓄えが底をつき討ち入りそのものができなくなってしまう。経済的理由が討ち入りの真実と考える人も多いようです。

また四十七士と言われるように、赤穂浪士は多人数です。中には、再就職のために討ち入りに加わったという人もいたかもしれません。

なお、赤穂浪士の討ち入りの真実ついては、他にも次のようなことが言われています。

 

討ち入りに際しての揃いの陣羽織は有名ですが、実際には陣羽織ではなく袖口に白い布を縫い付けるなどして同士討ちを避けていた。

討ち入りに際しての山鹿流陣太鼓は有名ですが、実際には陣太鼓は鳴らされていなかった。

討ち入りに際して隣家が高張り提灯を掲げて赤穂浪士を支援したとされているが、そのような事実はなかった。

 

また、

 

討ち入りに際して赤穂浪士は門をたたき破るなどしているが、吉良邸は土塀が崩れていたりなど防御は堅牢ではなかった。

赤穂浪士の討ち入りは隠密裏に行われたとされているが、幕府は赤穂浪士の動きを察知していながらも、積極的な取り締まりなどは行っていなかった。

 

この辺りが真実だとすると、吉良上野介は赤穂浪士の討ち入りを予期していなかったが、幕府はそれを知っていたことになります。

吉良上野介は幕府に見捨てられていたということでしょうか。

 

「赤穂浪士討ち入りの真実とは」のポイント

幕府は、赤穂藩の改易までは考えていなかった。

赤穂浪士の討ち入りの原因は、喧嘩両成敗に対する不平ではなかった。

赤穂浪士の多くは、経済的に困窮していた。

 

第4の場面 赤穂浪士討ち入り後の真実とは

忠臣蔵の元になった仮名手本忠臣蔵は討ち入りで話が終っています。

また、仮名手本忠臣蔵から派生して生まれた他の忠臣蔵の物語も、基本的には討ち入り、あるいは、その後の赤穂浪士の切腹で物語を終わらせています。

では、その後の浅野家、吉良家はどうなったのでしょうか。

浅野家は浅野内匠頭の刃傷事件により改易となりましたが、後継となったのが浅野内匠頭の実弟である浅野大学。

浅野大学はその後、赦されて500石の知行で旗本に取り立てられています。

大名として浅野家を復興することはできませんでしたが、浅野大学は旗本としてその生涯を終えています。

一方の吉良家は吉良上野介が隠居をしていたため、吉良義周(きらよしちか、吉良上野介の孫)が当主になっていました。

赤穂浪士の討ち入りに際して吉良義周は防戦に努めたものの、敵に切りつけられて気絶をしてしまいます。

後日、幕府から言われたのは隠居である吉良上野介を守れなかったのは、当主である吉良義周の責任。

その責任を取らせるということで吉良家は改易、吉良義周は信州高島城に配流となります。

配流先では常に監視がつき、冬でも火鉢も与えられずといった劣悪な環境で日々を送ることになり、病弱であった吉良義周は、配流後3年目の21歳で短い生涯を閉じることになります。

 

「赤穂浪士討ち入り後の真実とは」のポイント

赤穂藩は赤穂事件の後、旗本として復活することができた。

吉良氏の当主は改易の上、配流となった。

まとめ


 

 

 

 

 

 

赤穂浪士の討ち入りを題材とした仮名手本忠臣蔵は勧善懲悪の物語。

そして後世、生み出されたさまざまな忠臣蔵の物語も勧善懲悪の考えが受け継がれています。

物語ですからお客様が喜ぶようなものを作らなければいけない。

その発想が赤穂浪士を善として、吉良上野介を悪にしています。

しかし、真実はその通りだったのでしょうか。

松の廊下の事件は、遺恨などではなく浅野内匠頭の乱心だった。

赤穂浪士の討ち入りは、喧嘩両成敗を不服に思う行動ではなく、単なる敵討ちであった。

仮にそのことが真実だとすると、吉良上野介は被害者で、赤穂浪士は暴力的な加害者という構図も成り立ちます。

忠臣蔵には、その物語とはうらはらに、いくつもの真実が隠されているようです。

この記事では巷間言われている忠臣蔵の真実を、4つに分けてわかりやすくご紹介してきました。

果たして、忠臣蔵、赤穂浪士の討ち入りの真実とはどのようなものだったのでしょうか。


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