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北政所と徳川家康の関係とは!豊臣秀吉の死後が興味深い

北政所が晩年を過ごした高台寺
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はじめに

この記事では、北政所と徳川家康の関係についてお伝えします。

北政所は天下統一を成し遂げた豊臣秀吉の正室です。そのため北政所はとても有名な人物ですが、その事績ははっきりとしていない部分も多いようです。

当然、北政所と徳川家康の関係も明確ではありません。

ただ、北政所は豊臣家が滅亡した後も生き延びて天寿を全うし、北政所の縁戚は大名として江戸時代を生き延びています。

明確ではないながらも、北政所と徳川家康には浅からぬ関係があったことがうかがえます。

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北政所とは

北政所が晩年を過ごした高台寺高台寺

北政所の生年ははっきりしてません。1542年、1548年、1549年など、生年には諸説あります。

また、名前もはっきりとしていません。「ね」という一文字であったという説。また、「おね」「ねね」、名前についても諸説あります。

ねねが後の豊臣秀吉と結婚するのは1561年。身分としてはねねの実家の方が少しばかり高かったようですが、それはあくまでも豊臣秀吉と比較したうえでのこと。

当時は夫婦とも身分が低く、そのため事績もはっきりとしていません。

しかし、夫の豊臣秀吉は目覚ましい出世。主君である織田信長が倒れたのちは、織田家に変わって天下人へと上り詰めていきます。

豊臣秀吉が関白になったのは1585年。同時に正室であるねねも、従三位という高い位階を与えられ、以降は北政所と名乗るようになります。

夫の豊臣秀吉が亡くなったのは1598年。豊臣秀吉の後継者は豊臣秀頼。そしてその母は豊臣秀吉の側室であった淀殿。

ここにもいろいろな説はありますが、北政所は大坂城を退去します。

その後、関ヶ原の戦いを経て1603年には落飾。北政所は高台院となり、1605年には京都に高台寺を建立します。

高台院が亡くなったのは1624年。亡くなった場所は高台寺と伝えられています。

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北政所と徳川家康の関係とは

北政所は豊臣秀吉の正室。そのため大きな権力を持っていたのは間違いのない所ですが、豊臣秀吉在世中は、徳川家康との強い結びつきはなかったようです。

豊臣秀吉も徳川家康も類いまれなる人物。この2人の関係は、相撲に例えるならば横綱と横綱の取り組み。余人が入る余地はなかったのではないでしょうか。

もちろん、北政所と徳川家康に接点はあったのでしょうが、それは豊臣秀吉の正室である北政所と、豊臣家に臣従した徳川家康という関係。

政治的に深い関係があったとは考えにくいところです。

しかし、豊臣秀吉が亡くなると状況は一変します。

特に豊臣秀吉が亡くなったのは無謀な朝鮮出兵のさなか。政治が混乱する時期でもあり、後継者である豊臣秀頼も年少で、天下を治める力などはありませんでした。

豊臣秀吉が亡くなると、すぐに起こったのが豊臣秀吉の家臣の武将による諍い。この諍いを巧く利用をしたのが徳川家康。

織田信長が亡くなった後、豊臣秀吉が天下人になるまでの策略は見事なものでしたが、それと匹敵するのが徳川家康の天下取りです。

徳川家康は、豊臣秀吉の子飼いの武将で、石田三成の反対勢力である加藤清正や福島正則などを取り込み、関ヶ原の戦いで石田三成を破り、実質的に豊臣家の勢力を見事にそぎ落とします。

そして、その過程で重要な役割を果たした可能性のあるのが北政所です。

北政所は正室。淀殿は後継者の豊臣秀頼の生母とはいえ、あくまでも側室の一人。北政所が立場にこだわるのであれば、大阪城を退去するはずはありませんでした。

しかし1599年、北政所は関ヶ原の戦いの1年前に大坂城を退去。その大坂城には、徳川家康が入城しています。

北政所はどうして大坂城を退去したのでしょうか。

一説には、淀殿との確執があり、北政所は大坂城に居る場所を無くしてしまった。

要は豊臣秀吉亡き後の権力闘争に負けてしまった、あるいは嫌気がさしてしまったという説があります。

しかし、まったく反対に淀殿と北政所の関係は決して悪くはなかった。ただ、淀殿は豊臣秀頼と共に政務を見る役割、北政所は豊臣秀吉の菩提を弔う役割。

役割に大きな違いがあったため、北政所は大坂城を退去した。そんな考えもあるようです。

淀殿と北政所の関係ははっきりとはしていないようですが、北政所が大坂城を退去してすぐに徳川家康が大坂城に入城した。

徳川家康が豊臣秀吉亡き後の最有力者だとしても、勝手に大坂城に入れるわけもありません。ここに徳川家康と北政所の密接な関係がうかがえます。

仮に淀殿と北政所が険悪だとしたら、北政所は豊臣家の行く末に見切りをつけた。だから徳川家康が大坂城に入ることを許容した。

逆に淀殿と北政所の関係が円滑であったとしたら、北政所は徳川家康に豊臣家の行く末を頼んだ。だから徳川家康が大坂城に入ることを許容した。

どちらが正しいのかは分かりません。ただ、どちらにしても北政所と徳川家康の間には、政治的な関係が生まれていた。そのように考えることができそうです。

北政所と徳川家康の関係は、関ヶ原の戦いでも垣間見ることが出来ます。

ただ、この戦いにおいても北政所の心情が豊臣家寄りだったのか、徳川家寄りだったのかははっきりとしていません。

従来、有力だったのは北政所は徳川家康寄りだったという考え方です。

北政所と豊臣秀吉の間に子供は生まれませんでした。それだけに北政所は豊臣秀吉子飼いの武将を殊の他かわいがったと言われています。

この代表格が加藤清正や福島正則。あるいは黒田長政もこの系譜に入る武将かもしれません。こうした武将の多くは関ヶ原の戦いにおいて東軍に属しています。

石田三成との関係があったことは否定できませんが、それでも北政所がかわいがってきた武将の多くが徳川家康に味方したということは、北政所と徳川家康に何かしらの関係があったと考えるほうが自然に思われます。

また、北政所の甥にあたる小早川秀秋に対しては、徳川家康の味方をするようにとも示唆をしています。

このような事実を積みあげていくと、北政所と徳川家康が事前に打ち合わせをしていたかどうかは分からないまでも、北政所が徳川家康を高く評価していたことが推察できます。

しかし、一方では北政所はあくまでも豊臣家を盛り立てようとしていた。そんな考えもあったのではないかと考えられています。

北政所の甥である木下利房は関ヶ原の戦いでは西軍に属し、戦後は改易の憂き目にあっています。また、その弟である木下俊定も西軍に属し、同様に改易をされています。

木下家は男兄弟が多く、小早川秀秋もその一人。木下家は子孫を残すために、ある者は東軍につき、ある者は西軍についた。

そう考えることもできますが、北政所と血縁関係にある親族のうち少なくとも一部は西軍についたというのは興味深いところです。

関ヶ原の戦いにおいて、北政所が徳川家康に与えた影響というのはよくわかりません。

仮に北政所が徳川家康寄りで、そのため北政所知己の多くの武将が東軍についたのだとすれば、北政所には相当な政治力があったことが分かります。

しかし、北政所が豊臣家よりの心情の持ち主だとすれば、その考えに従ったのはほんの一部であり、北政所は政治的に重要な立場ではなかったと考えることもできます。

関ヶ原の戦いで、徳川家康と北政所が無関係であったとは考えにくいところですが、北政所が徳川家康に対して政治的な力があったのかどうかは、やはり分かりにくいようです。
 
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関ヶ原の戦い後の徳川家康と北政所の関係とは

北政所が晩年を過ごした高台寺近くのねねの道高台寺ねねの道

関ヶ原の戦いで実質的に徳川家康が天下人になっています。一方の北政所は落飾して高台院となります。

この段階で、高台院は徳川家康に対しての政治的な影響力を無くしたと考えることができそうです。

そもそも北政所に政治的な影響力があったのかどうかは定かではありません。

また、徳川家康に対する政治的な影響力があったとしても、それは豊臣秀吉が亡くなってから関ヶ原の戦いが終わるまで。

約2年間と短期間のものであったと考えるのが自然のようです。

ただ、徳川家康が北政所を粗略にしたのかというと決してそうではないようです。

高台院には亡くなるまで約17000石の所領は安堵されています。

これは豊臣秀吉の在世中に北政所に与えられていたものですが、徳川家康はこの領地を安堵するとともに、わずかながらも所領を増やしています。

また、2代将軍徳川秀忠も高台院の元へ訪れたという記録も残っています。

大坂の陣において、高台院は大坂城に入城して豊臣秀頼の説得に乗り出そうとします。ただし、その動きは事前に徳川家康が察知して、北政所の大坂城入城を阻止します。

すでに北政所の政治的影響力は失われていたものと考えられますが、そうした動きを見せた北政所に対して何の処分も行われなかった。

こうしたことを考えると、政治的影響力は別としても、徳川家康と北政所には何かしらの関係が続いていた。そのように考える事も出来るような気がします。

北政所と徳川家康の関係について、政治的にどの程度の関係があったのか。このあたりはわかりません。ただ、北政所と徳川家康が無関係であったということはなさそうです。

北政所と徳川家康、本当はどんな関係だったのでしょうか。興味深いところです。

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