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日本史

明智五宿老と言われた明智光秀の家臣の事績と最期を簡単解説

坂本城址公園

明智五宿老(明智五人衆)とは

この記事では、明智光秀を支えた5人の家臣「明智五宿老(明智五人衆)」の事績と、それぞれの最期についてお伝えします。

ところで戦国時代の有名な武将には有能な家臣がいて、それぞれに呼称がつけられてきました。

もっとも有名なところでは、徳川家康の草創期を支えた徳川四天王があります。

また、明智光秀の主君であった織田信長の元には織田四天王。

あるいは同じく織田信長の家臣で、明智光秀とはライバル関係にあった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の元には、羽柴四天王という存在もありました。

では、明智五宿老(明智五人衆)とはどのような存在だったのでしょうか。

どうやら明智五宿老(明智五人衆)とは、明智光秀が本能寺の変を起こす前に、その企てを相談された五人の家臣を示しているようです。

それでは、明智五宿老(明智五人衆)のそれぞれの事績を簡単にご紹介していきます。

なお、明智五宿老は明智五人衆と伝えられることもありますが、この記事では明智五宿老に統一してお伝えをしていきます。

 
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明智五宿老1 藤田行政(藤田伝吾)

生没年不詳~天正10年6月14日
藤田行政(ふじたゆきまさ)は、通称の藤田伝吾(ふじたでんご)の名前でも知られています。

藤田行政の前半生の事績ははっきりとしませんが、明智家には明智光秀の父の代から仕えていたとされています。

その後、明智光秀に仕え、明智光秀と共に各地を転戦しています。

本能寺の変に際しては、この後でご紹介する明智光忠・溝尾庄兵衛とともに兵4,000を預けられ従軍。

その後、羽柴秀吉と明智光秀の山崎の戦いにも参戦するものの、敗れて淀の地へ退却。

山崎の戦いで敗れた主君の明智光秀は勝龍寺に籠城しますが、ここも羽柴秀吉に包囲されて落城。

明智光秀は勝龍寺からさらに坂本城への退却を試みますが、その途中で落ち武者狩りにあい自害をします。

淀の地で様子を見ていた藤田行政ですが、勝龍寺の落城を知り自害をして生涯を閉じます。

明智光秀が亡くなったのは天正10年6月13日

藤田行政が亡くなったのは天正10年6月14日。藤田行政は明智光秀の後を追うように生涯を閉じています。

明智五宿老2 明智秀満

生没年不詳~天正10年6月14日
明智秀満(あけちひでみつ)は明智氏の一族であったという説もありますが、そうでないという説もあります。

明智秀満は元は三宅弥平次という名前で知られていました。

その後、荒木村次(荒木村重の子)に嫁いでいた明智光秀の娘が離縁されたことで、この娘を妻に迎え明智秀満を名乗るようになったと考えられています。

本能寺の変に参戦後は、織田信長が居城としていた安土城に向かい守護の任にあたります。

そして山崎の戦いの敗戦を知った後は、坂本城に入ります。

その後、坂本城の籠っていた明智光秀の妻子や自らの妻を刺した後、自害をして生涯を閉じています。

なお明智秀満は生き延びて、後に徳川家康の元で活躍した天海僧正になったという噂も聞こえてきます。

 
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明智五宿老3 明智光忠

生没年1540年~天正10年6月15日
明智光忠(あけちみつただ)は明智光秀の従兄弟とされていますが、はっきりとしたことは分かりません。

本能寺の変に参戦しますが重傷を負い、京都で療養をします。その後、山崎の戦いの敗戦を知り坂本城へ退去。

明智秀満とともに自害をしています。

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明智五宿老4 斎藤利三

生没年1534年~天正10年6月17日
斎藤利三(さいとうとしみつ)の出自は諸説あってはっきりとしていませんが、事績については他の武将よりもはっきりとしています。

斎藤利三は、美濃国を斎藤氏が治めている頃の西美濃三人衆の一人である稲葉一鉄に仕えていました。

しかし稲葉一鉄と諍いがあり明智光秀に仕えます。

明智光秀の元では厚遇され、明智家の中で重き存在となります。

また本能寺の変の少し前、明智光秀は織田信長より四国を治めていた長曾我部氏との外交交渉を命じられていますが、斎藤利三はそこでも重要な役割を果たしていたと考えられています。

本能寺の変にも、山崎の戦いにも参陣しますが、山崎の戦いの後に捕縛され処刑をされます。

なお、斎藤利三の子に福という娘がいます。この福は後に江戸幕府第3代将軍徳川家光の乳母となり「春日局」と称されるようになります。

 
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明智五宿老5 溝尾庄兵衛

生没年1538年~天正10年6月13日
溝尾庄兵衛(みぞおしょうべえ)の名前がでてくるのは、明智光秀が朝倉義景に仕えている頃です。

後に室町幕府第15代将軍になる足利義昭が、越前国の朝倉義景を頼ってきます。

しかし朝倉義景が頼れる存在でないことを知った足利義昭は、次に織田信長を頼ります。

足利義昭と織田信長を結びつける役割を果たしたのが明智光秀と言われていますが、このときに明智光秀の家臣として溝尾庄兵衛の名前が見られます。

溝尾庄兵衛は早いうちから明智光秀の家臣であったと考えられますが、その事績についてはあまりわかっていません。

また、明智光秀が本能寺の変を起こす前にその企てを相談された五人の家臣を示すのが明智五宿老と言われているものの、その中に溝尾庄兵衛は入っていなかったという説もあります。

溝尾庄兵衛は山崎の戦以後も明智光秀と行動を共にします。

そして、明智光秀が落ち武者狩りにあい自害をした後は、後を追うようにその場で自害。あるいは坂本城に戻り自害したと伝えられています。

まとめ

坂本城址の明智光秀像
この記事では、明智光秀を支えた5人の家臣「明智五宿老」についてお伝えをしてきました。

ところで明智光秀については特に前半生が謎に包まれている人物で、そのことと歩調を合わせるように、明智五宿老も事績がはっきりとしない人物が多いようです。

明智五宿老の動向がしっかりと見えてくるのは、明智光秀から本能寺の企てを打ち明けられてから、山崎の戦い後に全員が亡くなるまでの間の約2週間余りのこと。

果たして、明智家にとって明智五宿老はどのような存在だったのでしょうか。