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この記事では、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が大政奉還した理由を簡単にご案内していきます。
まず、大政奉還とは何か。
次に、大政奉還をした理由は何か。
そして大政奉還後はどうなったのかなど、順を追ってご案内をしていきたいと思います。
大政奉還とは何か
江戸時代、実質的に政治を行っていたのは幕府です。しかし、形式上の権威は朝廷にあり、朝廷は官位などを定めていました。江戸幕府の最高権力者は将軍ですが、将軍とは征夷大将軍のことで、征夷大将軍も朝廷によって任命されるものでした。
日本の政治の形式的な権威は朝廷、実質的な権威は幕府にありましたが、政治の実権(大政)を幕府が朝廷に返したのが大政奉還です。
大政奉還をした人物は、江戸幕府の第15代将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ、1866年~1913年)。
大政奉還をした場所は、京都の二条城。
大政奉還をした時期は、慶応3年10月14日(現在の暦では1867年11月9日)になります。
大政奉還により、江戸幕府は政治に対する権限を失うことになります。
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大政奉還をした理由とは
江戸幕府は1603年に成立し、徳川慶喜で第15代。約260年にわたって政治の実権を握っていたわけですから、大政奉還にも相当の理由があるはずです。
その理由といえば、端的に言えば薩摩藩と長州藩の存在です。
黒船が来航したことで、それまで鎖国をしていた日本は大きく揺れ動きます。
たとえば、井伊直弼による安政の大獄は代表的事例の一つであり、幕府の最高権力者であった大老井伊直弼が江戸城桜田門の前で水戸浪士などに簡単に討ち果たされたことは、幕府の権威を一気に失墜させる大きな要因となっています。
幕末、紆余曲折を経ながらも力をつけていたのが薩摩藩と長州藩です。
薩摩藩や長州藩は最初から幕府を倒そうと思っていたわけではないでしょうが、この時期は「薩長同盟」を締結し討幕に傾いていました。
当時の状況を考えたら、近い将来薩摩藩と長州藩は武力をもって敵対してくる。
薩摩藩や長州藩だけなら幕府の力で押しつぶすことはできるかもしれないが、薩摩藩や長州藩に呼応して諸藩が味方をすることも十分に考えられる。
さらには現状では幕府の良き理解者ともいえる土佐藩も最終的には薩摩藩や長州藩に与するかもしれない。
そうしたことを考えると、ここは一度身を引いて情勢を見極めることの方が望ましい。
徳川慶喜がこのように考えたかどうかははっきりとは分かりませんが、大政奉還について書かれた多くの本がこのようなことを語っています。
大政奉還をすすめたのは土佐藩の前藩主である山内容堂。
山内容堂の提言を受けた徳川慶喜は10月13日に二条城に在京の40藩の重臣を呼び寄せ諮問。
翌日の10月14日には大政奉還の願いを朝廷に提出し、10月15日に認められています。
では、徳川慶喜が大政奉還した理由はそれだけでしょうか。
どうやら、大政奉還をした理由は他にもいくつかあるようです。次に、その理由をご案内していきたいと思います。
徳川慶喜の父は水戸徳川家藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)、母は登美宮吉子女王(とみのみやよしこじょおう)です。
水戸徳川家は徳川家康が創設した徳川御三家の一つですが、水戸徳川家は当初より尊王の思想が篤い家でした。また、妻も皇族の出身。
徳川慶喜は尊王の思想に篤い家に生まれたばかりでなく、母も皇族出身。徳川慶喜には、朝廷を尊ぶ思想が根付いていたものと思われます。
次に、考えられるのが欧米諸国の動向です。
欧米諸国は日本に対して強圧的な態度で臨んできました。
また、欧米の中でもイギリスは薩摩藩や長州藩、フランスは幕府よりで、仮に戦いが起こったときこうした列強は日本の内乱に付け込んでくる可能性がありました。
幕府の力では鎖国体制を維持することはできず、内乱が起きれば列強が入り込んできて食いつぶされてしまう。
こうしたこともあり幕府は一刻も早く政権を手放す必要があったように思われます。
そして最大の理由は大政奉還後の話になります。
大政奉還を行えば幕府は政治の実権を手放すことになります。では、その後、政治を動かすのは誰になるのでしょうか。
朝廷に政権を返しても、公家に政治を執り行う能力はありません。
次に考えられるのは薩摩藩や長州藩ですが、薩摩藩や長州藩には内政に精通した人物も、外交を経験した人物も見当たりません。
また、薩摩藩や長州藩は軍事力に秀でてはいますが、幕府は薩摩藩や長州藩よりはるかに大きな領地をもち、軍事もこの両藩よりも近代化されています。
仮に政権を朝廷に返したとしても、公家も薩摩藩も長州藩も担当能力を持ち合わせていない。
そうすれば改めて徳川慶喜にも登場の機会があるはずと考えても不思議ではありません。
実際に徳川慶喜が望んでいたのは、徳川家は一大名の立場に降りる。ただし、政治から離れるわけではなく諸侯とともにこれからも政治に関わっていく。
人によっては、一度政権を手放したとしても、それを持て余した人が改めて自分に頼ってくるはずだ。
こうした意見もあるようですが果たしてどうでしょうか。
徳川慶喜が改めて政権の中心に戻ろうとする意志があったのかどうかまでは定かではありません。
ただ、政権に協力をしていきたい、あるいは、政権に協力を求められることはあるはずだ。こうしたことを思っていたとしても不思議ではないように思われます。
では、ここまでを踏まえて徳川慶喜が大政奉還をした理由を箇条書きで記しておきたいと思います。
徳川慶喜が大政奉還をした理由
① 薩摩藩・長州藩の勢力が強大となっていて、内乱が起きれば他の藩も追随する恐れがあった。
② 徳川慶喜は尊王の家に生まれ、母の出自も皇室であった。
③ 欧米列強の圧力が強くなっているばかりでなく、日本の内乱をもうかがっていた。
④ 大政奉還をしてもいずれは自分(徳川慶喜)を頼ってくる時期が来るはずだと考えていた。
長らく続いた江戸幕府を自らの手で終わらせるわけなので徳川慶喜にも相当の覚悟があったはずです。
また、大政奉還はたった一つの理由だけで決断できるものではないようにも思えます。
そこで、この記事では徳川慶喜が大政奉還をした理由を考えてみました。
もしかしたら、他にももっと深い理由があるのかもしれませんが、この記事では大政奉還の理由を4つにまとめてお伝えしました。
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さいごに 大政奉還後はどうなったの
大政奉還が朝廷に提出された同じ日に出されたのが「討幕の密勅」です。
これは、その名前の通り幕府を倒すという命令が天皇より密かにだされたということになります。
討幕の密勅は、公家の岩倉具視より薩摩藩と長州藩に渡されています。
ただし、この時点で岩倉具視は朝廷の中枢部から離れていますし、密勅は詔(みことのり)の体裁も整えていないもの。
現在では大政奉還に合わせて、急ごしらえで作られた偽物と考えられていますし、密勅が実行されることもありませんでした。
ただし、薩摩藩や長州藩の意向は討幕であり、徳川慶喜の政治生命を絶つことでした。
そのため、薩摩藩や長州藩はさまざまな策を弄して、徳川慶喜と幕府を追い込んでいきます。
結果として出されたのが12月9日の王政復古の大号令。
王政復古により少なくとも形式上は政治の実権が幕府から朝廷に移るとともに、慶応4年1月4日の鳥羽伏見の戦い、さらに戊辰戦争につながっていきます。
鳥羽伏見の戦いに敗れた徳川慶喜は江戸にもどり蟄居。一時は死罪を覚悟するほどに追い詰められましたが、勝海舟など周囲の尽力により一命をとりとめます。
もつとも、徳川慶喜自身はその後の政治に携わることはありませんでした。そのことを考えると、徳川慶喜の大政奉還の目論見は大きく外れたものと言えそうです。
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