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山岡鉄舟と西郷隆盛の幕末と明治維新後の関係をご紹介!

はじめに

この記事では、山岡鉄舟と西郷隆盛の関係を幕末と明治維新後に分けてご紹介をしていきます。

まずは、山岡鉄舟の略歴からお伝えをしていきます。

 
1836年(天保7年) 小野家の第4男として江戸で生まれる。
1845年(弘化2年)頃 剣術の修行を始める。
1855年(安政2年) 講武所に入る。剣の師は千葉周作、槍の師は山岡静山。
1856年(安政3年) 山岡家に養子に入る。
1857年(安政4年) 清河八郎などと共に尊王攘夷活動に身を投じる。
1868年(慶応4年) 駿府で西郷隆盛と会談する。
1872年(明治5年) 西郷隆盛に請われて明治天皇の侍従となる。
1882年(明治15年) 侍従の職を辞する。
1887年(明治20年) 子爵に叙せられる。
1888年(明治21年)  胃がんにより死去。

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山岡鉄舟と西郷隆盛の関係1 幕末

山岡鉄舟が建立した全生庵(東京都台東区谷中)



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

山岡鉄舟と西郷隆盛の最初の出会いは幕末です。

1868年(慶応4年)1月3日に始まった鳥羽伏見の戦いは「錦の御旗」の出現もあり官軍の勝利に終わります。

幕府側の徳川慶喜は江戸に帰り上野寛永寺に謹慎。官軍に恭順の意向を示しますが、官軍は江戸に向かい幕府側に戦いを仕掛けようとします。

江戸幕府第15代将軍であった徳川慶喜は戦う意思はなかったものの、江戸幕府を倒した官軍はここまでの一連の流れを革命と考えていました。

革命であれば徹底的な勝利が必要。そのような考えていた官軍は、徳川慶喜の恭順を許さず、徳川慶喜の死を目論んでいたと考えられています。

当時の官軍の実質的な最高責任者は征討大総督府参謀の西郷隆盛。そして幕府側の責任者は徳川慶喜の意を汲んだ勝海舟。本来であれば勝者の西郷隆盛の元に、敗者の勝海舟が赴き交渉すべき状況でしたが、勝海舟も江戸を離れることができません。

そこで白羽の矢が立ったのが幕臣で剣にも禅にも優れた山岡鉄舟。戦う意思でみなぎっていた官軍の元に行くことは、場合によっては死を覚悟しなければいけないほどの役割ですが、山岡鉄舟は快諾。早速、西郷隆盛のいる駿府(現在の静岡県)に向かいます。

西郷隆盛と山岡鉄舟の会談は1868年(慶応4年)3月9日に行われます。

この時、1836年(天保7年)生まれの山岡鉄舟は31歳、1828年(文政10年)生まれの西郷隆盛は40歳。2人とも若いながらも幕末の荒波を潜り抜けてきた人物。相当に白熱した議論があったのではないでしょうか。

山岡鉄舟は勝海舟から預かってきた書状を渡し、徳川慶喜の意向を伝えます。それに対して、西郷隆盛は山岡鉄舟に5つの条件を突きつけます。

 

1 江戸城を明け渡すこと。

2 城中の兵を向島に移すこと。

3 兵器をすべて差し出すこと。

4 軍艦をすべて引き渡すこと。

5 徳川慶喜を備前藩に預けること。

 

薩摩・長州を中心とする官軍は幕府軍に勝利をしました。しかし、この段階においても幕府は江戸城という要塞を持っていますし、兵士・兵器・軍艦などの保有戦力は官軍をはるかに凌駕していました。官軍がまず考えなければいけないのは、幕府の戦力をそぎ落とすことでした。

もっとも徳川慶喜は官軍と戦う意思はなく恭順の意を示していました。そのため、5つの要求のうち最初の4つについては山岡鉄舟も了解できる話でした。

しかし、最後の徳川慶喜を備前藩に預けることについては、どうしても納得できませんでした。仮に徳川慶喜を備前藩に預けてしまうと、いまだ多くの兵力を有している幕府側が許容するはずもありません。

官軍が徳川慶喜を備前藩に預けようとしたその段階で、日本はさらに大きな内乱に足を踏み入れることになります。

この時、山岡鉄舟は西郷隆盛に対して、仮に島津候が同じ立場になったら家臣であるあなたはそのことを承服できるのですかと尋ねます。西郷隆盛はこの言葉に納得して5条件のうち最後の条件だけは撤回します。

西郷隆盛と山岡鉄舟の会談は3月9日。そして、3月13日と14日には江戸で西郷隆盛と勝海舟の会談が行われ、徳川慶喜の命が保証されるとともに、江戸無血開城が決まります。

江戸無血開城に導いた会談としては、西郷隆盛と勝海舟の会談があまりにも有名ですが、このおぜん立てをしたのは間違いなく山岡鉄舟。

山岡鉄舟は勝海舟に命じられて、駿府での会談に赴いた。だから、この功績も勝海舟に帰すべきだという意見があるかもしれません。

しかし、駿府の会談の成功は山岡鉄舟の幕府に対する忠誠心と胆力があったからこそ。目立たないけれども山岡鉄舟の功績はもっと称賛されても良いように思われます。

また、この会談後に西郷隆盛が語った山岡鉄舟評はあまりにも有名です。

その言葉とは、「金や名誉や命もいらぬという人は始末に困るものだ。しかし、そのような人物でなければ世の中の大事は成し遂げられない。」西郷隆盛が山岡鉄舟をことのほか高く評価していたことが、この一文でよくわかります。

もっとも西郷隆盛自身も大久保利通・木戸孝允とともに明治維新三傑の一人に数えられながらも、官職にもお金にも無欲であったことは知られた話です。もしかしたら西郷隆盛は、約10歳も年下の山岡鉄舟に自分の面影を見出していたのかもしれません。

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山岡鉄舟と西郷隆盛の関係2 明治維新後

全生庵の観音像



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

明治維新後、山岡鉄舟は徳川家に従い駿府に移りますが、1871年(明治4年)には明治政府の中で仕事をするようになります。その山岡鉄舟の立場を一変させる出来事が1872年(明治5年)に起こります。

それは西郷隆盛の強い要望により明治天皇の侍従になったことです。

明治維新を迎えるまで朝廷には政治的な権限はありませんでした。そのためか天皇の養育は女官が行うのが常となっていました。

しかし、明治になり天皇が政治の前面に出るようになります。女官に育てられた天皇は有職故実などには通じているかもしれないが、政治を執り行っていくには不向きである。当時の西郷隆盛には、将来の明治天皇のあるべき姿についての憂慮があったといわれています。

そこで白羽の矢が立ったのが山岡鉄舟。明治天皇を女官から離して、剣と禅に精通した山岡鉄舟に明治天皇の養育を託します。

最初は固辞していた山岡鉄舟でしたが西郷隆盛の説得に折れて10年の約束で侍従の職を務めることになります。そして、1867年(明治10年)の西南戦争で西郷隆盛が亡くなった後も侍従を務め、約束通り1882年(明治15年)にその職を辞することになります。

さいごに

山岡鉄舟像



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この記事では、山岡鉄舟と西郷隆盛の関係を中心にいくつかのことをお伝えしてきました。

前述のとおり山岡鉄舟は1888年(明治21年)に亡くなります。亡くなる日の朝、山岡鉄舟は皇居の方に向かい座り、そのまま生涯を閉じたといわれています。

明治天皇は西郷隆盛に対してとても親しみを持って接していたことは知られています。ところで、山岡鉄舟が亡くったとき、その葬列が皇居前で止まります。その葬列を皇居から見送ったのが明治天皇。

明治天皇は西郷隆盛だけでなく、自らをとても厳しく養育した山岡鉄舟に対しても強い親しみを持っていたことがわかります。

明治天皇に愛された西郷隆盛と山岡鉄舟。この2人はいくつもの共通する部分があったのではないでしょうか。

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