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はじめに
この記事では、調所広郷の薩摩藩で行った改革と、その改革が薩摩藩に対してどのような影響を与えたのかについて、ご案内をしていきます。まずは、調所広郷の生没年と読み方についてご案内をしていきます。
調所広郷は、1776年に生まれて、1849年に亡くなります。
調所広郷の読み方は「ずしょひろさと」です。
なお、調所広郷は調所笑左衛門という名前でも知られていますが、この記事では調所広郷に統一してお伝えをしていきます。
調所広郷の略歴
調所広郷は、薩摩藩士の川崎氏の子息として生まれますが、10歳を過ぎたあたりで同じく薩摩藩士の調所家の養子となります。その後、薩摩藩の茶道職として出仕を始め、22歳の頃には江戸詰めとなります。
江戸詰めとなった調所広郷は薩摩藩の前藩主であった島津重豪(しまづしげひで)の目に留まり、ここから調所広郷の出世が始まります。
島津重豪の目に留まった調所広郷でしたが、当時の薩摩藩主は島津斉興(しまづなりおき)。島津斉興の元で数々の改革を行うようになります。
島津斉興の嫡男は島津斉彬(しまづなりあきら)です。普通に考えれば、島津斉興の次の薩摩藩主は島津斉彬であったはずです。
しかし、島津斉興は島津斉彬を嫌い、島津斉興と側室お由羅の方の間に生まれた、5男の島津久光を次の藩主にしようと画策をしていました。
これが、いわゆるお由羅騒動ですが、調所広郷は島津斉興側につき島津久光を後継にしようと画策をします。
もちろん正当な後継者である島津斉彬は黙っているはずはありません。島津斉彬派は、調所広郷を失脚させようとします。
そして、島津斉彬派は幕府に手を回し、調所広郷が江戸に赴いたときに調所広郷が薩摩藩の中で行った行為を糾問。
この糾問を行ったのは、当時の老中であった阿部正弘ですが、江戸幕府の要職をなす人物から悪事を糺されたことに観念した調所広郷は、薩摩藩藩邸で自害。服毒自殺と伝えられています。(享年72)
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調所広郷の改革と薩摩藩に対する影響とは
調所広郷の改革が行われたのは、島津斉興が薩摩藩主であった時代です。そして、調所広郷の改革は具体的には次のようなものがあげられます。
1 薩摩藩の借金500万両を無利子にしたうえで、年2万両を250年にわたって返済する。
2 奄美大島などからとれる砂糖を専売制にして、安く買い上げ高く売る。
3 琉球と密貿易をして巨大な利益を得る。
4 貨幣を偽造して巨大な利益を得る。
調所広郷が行った改革としてあげられているのは上記のとおりです。
特に有名なのは、1の薩摩藩の借金500万両を無利子にしたうえで、年2万両を250年にわたって返済するというものです。
当時の薩摩藩は500万両という借金苦にあえいでいました。この500万両は現在の価値にするとどの程度になるのでしょうか。
正直なところ、あまりにもいろいろな説があり、はっきりとしたことはわかりません。
たとえば、当時の1両は現在の3~4万円という意見があります。一方では、当時の1両は現在の30~40万円という意見もあります。
どの意見がより実際に近いのかはわかりませんが、仮に1両を20万円と考えてみます。そうすると薩摩藩の借金500万両は、現在価値にして1兆円ほど。
一つの国ならともかく、この金額は現在でいえば鹿児島県が抱えている借金。毎年の利子のことも考えると、普通に返せるようなものではありません。
そこで調所広郷が行ったのは、お金を借りた商人を呼び出し書き換えと称して借用証書を徴収して、すべて焼き払ってしまうというもの。
ただ借金を返さないというわけにもいかないので、新たな借用書を作ってそれを商人に渡します。
そのときの条件が、無利子で250年払い。1年2万両というのは、現在価値で40億円。お金を貸した商人から見たら、無利子の250年払いはまさに踏み倒し同然。
しかし、調所広郷の無茶とも言える改革は藩財政を豊かにしたのも事実のようです。
結果として藩財政は大きく好転。調所広郷の数々の改革で500万両あった薩摩藩の借金はなくなり、最終的には200万両の蓄えができたと言われています。
なお、薩摩藩は年2万両を着実に返済をしています。返済がなくなったのは、明治になり廃藩置県が行われたことが理由です。廃藩置県で薩摩藩は消滅し、借金も無効となり返済もそこで終了しています。
調所広郷の改革はどうして必要だったの
では、調所広郷の改革はどうして必要だったのでしょうか。当然のことながら、薩摩藩に大きな借金があったからです。当時、多くの藩が借金にあえいでいました。薩摩藩も例外ではありません。ただ薩摩藩については、借金が他藩よりもはるかに大きかったという事実があります。
そして、その原因は調所広郷を見出した島津重豪にありました。
島津重豪は蘭癖大名と言われていました。蘭癖大名というのは、西洋の文化を取り入れるのに熱心な大名です。しかし西洋の文化を取り入れるのには莫大なお金が必要でした。
蘭癖大名と言われた島津重豪の薩摩藩が多大な借金に苛まれたのは、当然の結果なのかもしれません。
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調所広郷がお由羅騒動で島津斉興についた理由とは
お由羅騒動に際して、調所広郷が島津斉興側についた理由は2つあります。まず1つ目は、調所広郷は島津斉興の家臣であったことです。
また単なる家臣というだけではなく、島津斉興がいたからこそ調所広郷は引き立てられ、十分な活躍の場を与えられて、多くの実績をあげることができています。
そうした功績で調所広郷は低い身分から家老まで立身出世を果たしています。調所広郷にとって島津斉興は唯一無二の存在であったように思えます。
2つ目は、島津斉彬の思想信条です。
前述のとおり調所広郷を見出した島津重豪は蘭癖大名でした。蘭癖大名は多額の浪費をします。
島津重豪の作った多大な借財を、島津重豪の子である島津斉興が調所広郷を使って、完済させるだけではなく薩摩藩にゆとりを持たせています。
島津斉彬は、島津重豪の孫であり、島津斉興の子です。ところが島津斉彬は親である島津斉興よりも、祖父である島津重豪に愛されていました。
愛されているだけならばともかく、島津斉彬は島津重豪の思想信条までも受け継いでいました。
調所広郷にすれば艱難辛苦を経て薩摩藩の借財を返したのに、島津斉彬の代になってしまうとまた借財が増えてしまう。
このように考えていたと伝えられています。
そのためには長幼の序を無視しても、島津斉興の嫡男である島津斉彬よりも、島津斉興に愛されている五男の島津久光の方が薩摩藩主にふさわしいと考えていても不思議ではありません。
こうした2つの理由から、調所広郷は島津斉興についたわけですが、結果的にこのことが調所広郷の命を縮めることになります。
さいごに 調所広郷の死と薩摩藩のその後
お由羅騒動において、当初有利だったのは島津斉興です。しかし、島津斉彬は嫡男です。しかも聡明な人物として知られていました。
島津斉彬を正統な後継者と考える薩摩藩士も多く、島津斉興派は次第に追い詰められていきます。
島津斉興派の重要な人物の一人である調所広郷も、その対象とされています。
島津斉彬の味方には、ときの老中である阿部正弘がいました。島津斉彬派は、調所広郷が江戸に上るとき、その阿部正弘に調所広郷が密貿易をしたことについての密告をします。
江戸において阿部正弘に密輸について糺された調所広郷は、その後、薩摩藩邸において服毒自殺をします。
それが1849年1月13日のこと。
1851年2月には、島津斉彬がようやく薩摩藩主の座に就くことになり、お由羅騒動は一応の終結をみます。
薩摩藩主になった島津斉彬は、調所家の家禄と屋敷を没収し、家格も引き下げます。
お由羅騒動において、一方の首謀者である島津斉興と側室お由羅の方、そして島津久光は何の処分もうけていません。
しかし、お由羅騒動を推進したと目される調所家には大きな処分が下されています。また、調所家はその後も迫害を受け、最終的には一家離散の憂き目にあったとも言われています。
島津斉彬の調所広郷に対する憎しみは、相当に深かったのかもしれません。
しかし、調所広郷がいて、財政の立て直しができていたからこそ、薩摩藩は倒幕の中心になることができた。
これは紛れもない事実です。
名君と言われた島津斉彬。
そして、島津斉彬にその才能を見いだされた西郷隆盛。
そうした人物の対極にいた調所広郷は、どうしても歴史的評価が低くなりがちですが、果たして実際のところはどうなのでしょうか。
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