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真田信繁と真田幸村はどちらが正しい名前なのか考えました!

真田幸村が活躍した大坂城
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真田信繁と真田幸村

大坂の陣で一躍脚光を浴びた真田幸村(さなだゆきむら)。

しかし真田幸村という名前は後世の創作で、本名は真田信繁(さなだのぶしげ)であったと言われています。

果たして、真田信繁と幸村、どちらが正しい名前なのでしょうか。

この記事では、真田信繁なのか。あるいは真田幸村なのかを考えてみました。

本当は真田信繁?

真田幸村という名前は、真田信繁自身の書状に見つけることはできません。

そのため真田幸村という人物は後世の創作で、真田信繁が実在の人物であると考えられています。

真田信繁は真田昌幸(当時は武藤昌幸)の次男として生まれました。生年については1567年という説が有力ですが、1570年とも考えられています。

幼名は弁丸。元服して真田信繁になったと言われています。

後年、真田氏は豊臣秀吉に臣従。

1594年には豊臣姓を授けられ豊臣信繁と言われる時期もありますが、ここでは真田信繁として話を進めていきます。

真田信繁の信繁という名前は、ある武将にあやかって名付けられたものと言われています。

その武将とは武田信繁。武田信繁は武田信玄の弟です。

武田信繁は武田家にあっては副将格として兄の武田信玄を補佐していました。

武田信繁は知略も武略も優れた武将でしたが、1561年の第4次川中島の戦いで討死をしています。

武田信繁は知略も武略もある優れた武将。その武将の死後、元服に際してつけられたのが真田信繁という名前。

真田家にとっても本人にとっても真田信繁という名前は大切であったはずです。

どうして真田幸村なの?

真田幸村のイラスト
真田信繁自身、書状で「幸村」を名乗ったことはないようです。

しかし、真田信繁の兄である真田信之が祖となった松代藩の正史では「真田幸村」という記載があります。

また、江戸幕府が編纂した寛政重修諸家譜でも「真田幸村」という記載があります。

これだけを考えると、真田信繁自身は幸村を名乗ったことはない。

しかし、後世の歴史書においては逆に真田信繁ではなく真田幸村になっていることになります。

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真田信繁は真田幸村を名乗らなかったの?

でも、このことはちょっと不思議です。

本人が真田幸村を名乗ったことがないのに、後世の歴史書、しかも史料としての価値が高いと言われる歴史書が真田幸村と記載をしている。

普通ではあまり考えられないことです。

真田信繁自身が幸村を名乗ったからこそ、後世の歴史書にも真田幸村と記載された。

こう考えるほうがむしろ自然に思われます。

そこで最近言われているのが、真田信繁は大坂の陣に参加した後に信繁から幸村に改めたというものです。

真田信繁は武田家の名将である武田信繁にあやかってつけられた名前と言われています。

由緒ある名前であり、真田信繁もその名前を大切にしていたはずです。

しかし、真田信繁は幸村に名前を改める必要があった。

どうしてでしょうか。

真田家は真田家の祖とされる祖父の真田幸隆、父である真田昌幸も「幸」という漢字を用いていました。

真田家は代々「幸」の字を用いていて、真田家の嫡流である真田信幸も「幸」の字を使っていました。

このままであれば真田信繁が真田幸村になる必要もありません。

しかし、関ヶ原の戦いで真田氏は東軍と西軍の2つに分かれてしまいました。

真田昌幸とその次男である真田信繁は西軍に、真田昌幸の長男である真田信幸は東軍に属しました。

結果は東軍が勝利し、真田信幸は大名として生き残ることができましたが、父の真田昌幸と弟の真田信繁は和歌山県の九度山に追放。

大名として生き延びた真田信幸も徳川氏に遠慮をして、父真田昌幸の「幸」の字を使いづらくなり信幸改め信之と改名しています。

真田信幸が真田信之となり「幸」の字を受け継ぐものがいなくなった。

そのため大阪城に入城し、徳川氏と戦う覚悟を決めた真田信繁が真田幸村に名前を改めたとも言われています。

では真田幸村の「村」の字は何にあやかったのでしょうか。

はっきりとはしていませんが「村」の字は、刀工「村正」によるものという説があります。

村正は名刀として知られていましたが、徳川家にとっては妖刀とされていました。

徳川家康の祖父の清康、父の広忠は家臣により命を落としたと言われています。

また、徳川家康の嫡男である信康は織田信長の命により自害をしています。(広忠は病死したという記録もあるようです。)

清康や広忠が殺された時の刀、信康が自害したとき介錯に使われた刀、どれもが村正。

徳川家にとって村正は忌むべ刀「妖刀」ですが、徳川家康を倒すことに全精力を傾けていた真田信繁にとっては縁起の良い刀。

真田幸村の「村」の字はこの村正をあやかってつけたという伝承があります。

真田信繁がいつ幸村と改めたのかは定かではありません。

ただ自筆の書状が残っていないことから、真田信繁が真田幸村となったのは大坂入城後。

しかも、1615年6月、真田幸村が討死をする直前ではないかとも言われています。

まとめ

真田幸村が活躍した大坂城
真田信繁は真田信繁として亡くなったのか。あるいは亡くなるときには真田幸村と改名をしていたのか。

いろいろなことを考えると真田信繁自身が真田幸村と名乗っていた時期もあるように思われるのですが。。。いかがでしょうか。

それにしても死後数百年が経過しても本名さえはっきりとしていない。さすが、戦国の智将として名をはせた真田幸村。

そんな気もします。

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