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篤姫と和宮の関係はどうだったの(出会いから別離まで)

はじめに

この記事では、篤姫と和宮はどのような人物だったのか。

そして、篤姫と和宮はどのような関係だったのか。

出会いから別離まで、時系列でご紹介をしていきたいと思います。

篤姫と和宮はどのような人物だったの

篤姫と和宮の関係は、2人の経歴を確認することである程度は分かるかもしれません。

そこで、篤姫と和宮はどのような人物だったのか。

まずは2人の経歴を簡単に確認していきたいと思います。

篤姫(あつひめ)とは

1836年 薩摩藩主島津家の一門である島津忠剛(しまづただたけ)の娘として生まれる

1853年 薩摩藩主島津斉彬(しまづなりあきら)の養女となり江戸へ赴く

1856年 右大臣近衛忠煕(このえただひろ)の養女となる、第13代将軍徳川家定の正室となる

1858年 徳川家定の死去に伴い落飾 天璋院(てんしょういん)となる

1868年 明治維新

1883年 脳溢血により死去 享年47歳

和宮(かずのみや)とは

1846年 仁孝天皇の皇女として生まれる

1851年 有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)と婚約する

1862年 第14代将軍徳川家茂の正室となる

1866年 徳川家茂の死去に伴い落飾 静寛院宮(せいかんいんのみや)となる

1868年 明治維新

1877年 病気により死去 享年31歳

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出会いの頃 篤姫と和宮は不仲だった

寛永寺



 

 

 

 

 

 

 

 

篤姫と和宮は同じ時期に江戸城の中で過ごすことになります。

では、篤姫と和宮はどのような関係だったのでしょうか。

少なくとも、出会いの頃の篤姫と和宮の関係はしっくりといってはいなかったようです。

不仲とまで言っていいのかどうかはわかりませんが、少なくとも疎遠であったとは言えそうです。

もちろん、篤姫にも和宮にも、それぞれに相手に対してわだかまりを持つ理由というのは存在します。

そして、その理由はまさに篤姫と和宮の経歴にあります。

では、篤姫と和宮のそれぞれが相手をどのように思っていたのかを考えてみます。

篤姫の和宮に対する思い

篤姫は和宮より約10歳の年長で長幼の序というのがあります。

また、そのことは置いておくとしても、篤姫は第13代将軍徳川家定の正室。

それに対して、和宮は第14代徳川家茂の正室です。

一般的に考えれば、篤姫と和宮は嫁姑の関係。

徳川家の中にあっては、自分の方が上であると思うのは当然のことです。

また、篤姫は武家の家で育っているのに対して、和宮は公家の世界で育っています。

篤姫は島津家から徳川家に入っています。一大名に過ぎない島津家と、江戸幕府を担う徳川家では文化も大きく異なっているはずです。

でも、武家は武家。違いはあっても武家の習慣の根幹は同じ。

苦労はあったでしょうが、篤姫は徳川家に馴染むことができたように思われます。

それに対して、和宮は公家の世界しか経験したことがなく、徳川家茂の正室になる段階にあっても、公家の風習を崩さないという条件で輿入れをしたと言われています。

徳川家に馴染んだ篤姫から見たら、武家の世界に同化しようとしない和宮を苦々しく思っていたことは想像に難くはありません。

和宮の篤姫に対する思い

公家の世界で育った和宮にとっては武家の世界が理解できるはずもなく、また理解する必要もない。

和宮はそのように思っていた可能性があります。

出自を見ると、和宮は仁孝天皇の皇女であり、孝明天皇の妹でもあります。

それに対して、篤姫は一大名である島津家の、しかも分家の出にすぎません。

公家の世界から見たら、その立場は雲泥の差。和宮が篤姫を下に見るというのはある意味、当然の事かもしれません。

また、立場の差については「位階」を考えると、より明らかになります。

和宮は、皇族であり一品に次ぐ二品の立場です。位階は全部で30の段階がありますが、二品というのは上から3番目または4番目。何れにしても相当に高貴な立場です。

一方の篤姫は、落飾して天璋院になったとき、朝廷より従三位を与えられています。従三位は位階では6番目。

決して低いわけではありませんが、和宮よりは明らかに下です。

また、二品は皇族であるがゆえに授けられたものであるのに対して、従三位はあくまでも臣下に与えられる位。

皇族である和宮と、家臣である篤姫には位階では決定的な差がありました。

篤姫と和宮は不仲だったことを証明する逸話

篤姫と和宮は不仲だった。

これを証明するような逸話が残されています。

それは、江戸城内で篤姫と和宮が対面した時のこと。

篤姫が上座に座り、和宮は下座。さらに、篤姫には座布団が用意されていたのに対し、和宮には座布団はなし。

徳川家の中では、篤姫の方が上位なので、この対応は間違いないのかもしれません。しかし、公家の世界で育った和宮には理解がしがたいところ。

対面が終った後、和宮が悔しがって涙を流したと伝えられています。

また、和宮から篤姫に贈り物をした際、表の紙に「天障院へ」と呼び捨てで記されていたという逸話もあります。

位階で行ったら、和宮が上で篤姫は下。和宮にとっては当然のことだったのかもしれません。

篤姫にも、和宮にもそれぞれに相手に対する思いはあったとは思われます。

もっとも、2人が日常的に顔を合わせていたかというと、それは別。2人とも身分が高いだけに日常的な接触は、あまりなかったというのが実際のところだと思います。

篤姫と和宮の不仲は世の中に喧伝されてはいますが、それは当事者同士の諍いというよりも、それぞれに従っていたお付きの人たちの争い。

日常的に会っていたであろうお付きの人たちが、それぞれの権勢を競い合って、それが不仲説に結び付いた。

篤姫と和宮の不仲というよりも、篤姫のお付きと和宮のお付きの不仲と言った方が、むしろ適切なのかもしれません。

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幕末 篤姫と和宮の関係は改善された

当初は、不仲と言われた篤姫と和宮ですが、徐々に2人の関係は改善をされていったようです。

まず、出てくる逸話が第15代将軍徳川慶喜との関係。

徳川慶喜は将軍に就いてすぐに大奥の改革を図ろうとします。これに反対をしたのが、篤姫と和宮。

2人は共同で徳川慶喜の大奥改革に異を唱えます。

また、その後に起こったのが戊辰戦争。

官軍に江戸城攻撃の意図が伝わると、篤姫と和宮は共同してそれぞれに嘆願活動を開始します。

篤姫は実家である島津家や、薩摩藩の出身で当時東征大総督府下参謀に任じられていた西郷隆盛に嘆願書を出しています。

また、和宮も征討大将軍である仁和寺宮嘉彰親王や母の実家である橋本大納言家に嘆願書を送っています。

結果的に、江戸城は無血開城されて、江戸市中も無事でした。

無血開城は、必ずしも嘆願書のみの成果ともいえないようですが、嘆願書が大きな要因であったのはどうやら事実。

篤姫と和宮が共同歩調をとることで、江戸の町は無事だったといえそうです。

明治になると、篤姫も和宮も江戸城を退出します。

篤姫は、実家である島津家の申し出を断り、薩摩に帰ることなく江戸に住み続けます。

一方の和宮は、1869年に京都へ戻るも、1874年には東京に戻ります。

この頃の事でしょうか。篤姫と和宮はともに勝海舟の元を訪れます。

勝海舟の家では食事が供されましたが、お互いが相手のことを敬い、篤姫は和宮の、和宮は篤姫の給仕をしようとした話が伝わっています。

篤姫と和宮は最初の頃こそ不仲が伝えられていましたが、幕末を契機として2人は強い信頼関係が培われていったものと思われます。

さいごに 別離

増上寺



 

 

 

 

 

 

 

 

和宮は脚気を悪化させ、箱根で療養生活を送るようになります。

このとき、篤姫は和宮の療養地まで病気見舞いに訪れています。

篤姫は鹿児島より江戸に出てきて以来、生涯、江戸の地を離れることはありませんでしたが、この箱根の病気見舞いは唯一の例外。

篤姫にとっては、和宮はそれだけ大切な存在だったとも言えそうです。

結果的にこの病気見舞いが篤姫と和宮の最後の面会となり、和宮は1877年に亡くなります。

なお、遺言により和宮の墓は、夫である徳川家茂と同じく増上寺にあります。

一方の、篤姫は和宮よりも長く1883年まで、東京で生き続けます。

もっとも、島津家の援助を一切受けることなく、亡くなった時に残されたお金はわずか3円(現在の5万円~6万円)。とてもつましい生活をしていたことがうかがえます。

篤姫の墓所は上野寛永寺。和宮と同じように、夫である徳川家定の隣に墓所が設けられています。

幕末は、主に男たちが活躍した骨太の時代です。しかし、男性だけではありません。

篤姫や和宮は江戸城の中にいながらも、江戸の町が火の海になることを阻止した。

篤姫と和宮の信頼関係があったからこそ、江戸を東京に生まれ変わらせることができた。

そのように言っても、過言ではないように思われます。


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