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幾島の生涯と篤姫との関係をわかりやすくお伝えします!

はじめに

この記事では、幾島(いくしま)の生涯と、幾島と篤姫(あつひめ)の関係について、わかりやすくお伝えをしていきます。

幾島の生涯1 篤姫と出会うまで

幾島は1808年に生まれます。父は薩摩藩士(鹿児島県) の朝倉景矩、母は久保田藩士(秋田県) 阿比留氏の娘の民と伝えられています。

幾島の名前が世の中に出てくるのは、薩摩藩第9代藩主である島津斉宣(しまづなりのぶ)の時代です。

島津斉宣は公家の五摂家の一つである近衛忠煕(このえただひろ)の元に、自らの娘である郁姫(いくひめ、1807年~1850年)を嫁がせます。郁姫が近衛忠煕に輿入れの際に、郁姫付きの上臈(じょうろう、高級女官)として近衛家に赴いたのが幾島です。

幾島は朝倉景矩の娘と書きましたが、朝倉景矩は薩摩藩の中で主君の家政を取り仕切る御側御用人を務めていました。朝倉氏は薩摩藩士の中でも出自は確かなもので、そうした家庭で育ったがゆえに作法に通じ、教養も豊かであったものと思われます。

また、郁姫の嫁いだ先が格式高い公家であることから、機転が効くだけでなく、胆力も相当にあったと推察されます。そして、このときの経験が幾島の生涯の中でも重要な経験になったものと考えられます。

しかし、郁姫は1850年に亡くなります。郁姫付きの上臈の時代は幾島ではなく藤田と名乗っていますが、郁姫の死とともに出家をして得浄院と号しています。

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幾島の生涯2 篤姫と出会うまで

江戸城大奥跡



 

 

 

 

 

 

 

 

得浄院として郁姫の菩提を弔っていた得浄院ですが、時代は幕末。得浄院の立場も大きく変わっていきます。

ときの薩摩藩主は第11代島津斉彬(しまづなりあきら)。

島津斉彬は英明を謳われていましたが、時の動乱ぶりを見て公武合体を画策。また、当時の江戸幕府は第13代将軍徳川家定(とくがわいえさだ)の時代でしたが、徳川家定は病弱で難局を乗り切るにはふさわしくない人物と考えられていました。

そこで島津斉彬などの数人の大名は、徳川家定の後継を頭脳明晰で有名であった一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)にしようと画策をします。

具体的に島津斉彬が考えたのが、将軍家と縁戚関係を結ぶこと。島津斉彬は、島津家の一門である島津忠剛(しまづただたけ)の娘である篤姫(1836年~1883年)を養女とし、さらに篤姫を近衛忠煕の養女としたうえで、徳川家定の正室として大奥に入ることに成功をします。

篤姫が島津斉彬の養女となったのは1853年。篤姫が近衛忠煕の養女となったのは1856年。そして、篤姫が徳川家定の正室となったのも1856年になります。

篤姫と幾島の出会いがいつであったかは定かではありません。ただ、篤姫が徳川家定の正室になる前に、得浄院は幾島と名を改めて篤姫に仕えたことは確かなようです。

また、この時に幾島が篤姫に対して行ったのは教育。篤姫は島津家の出ではありますが、輿入れの際はあくまでも近衛家の人間。そのため公家のしきたりや、武家のしきたりなど、さまざまな事柄を覚えこむ必要があったと考えられます。

幾島の生涯3 徳川家定・徳川家茂の時代

江戸城清水門



 

 

 

 

 

 

 

 

篤姫が徳川家定の正室になり大奥に入ることによって幾島の役割も変わってきます。篤姫が徳川家定の正室になったのは政略結婚。そして、その最大の目的は将軍継嗣問題になります。

前述のとおり徳川家定には将軍としての能力が欠けていました。そのうえ徳川家定に嫡子はおらず、病弱でいつ何があるかわからないとも考えられていました。

そこで当然に出てくるのが後継者問題でしたが、血筋から考えたら徳川家定の後継者は徳川家定の従兄弟で紀州藩主である徳川家茂でした。しかし、徳川家茂は幼く難局に対応する力は到底ありませんでした。

そこで島津斉彬が将軍の後継に考えていたのは、水戸藩主徳川斉昭の子で、徳川御三卿の一つである一ツ橋家に養子に入っていた徳川慶喜です。

徳川慶喜は血筋から言えば現将軍家とは遠かったものの、年齢的に問題はなく、さらに英明といわれていました。

篤姫の最大の目的は、徳川家定の正室として、徳川家定の後継を徳川慶喜とすることでした。ただし、これは篤姫の考えだけでできるものではありません。そこで連絡調整の役を担ったのが幾島です。

江戸城の大奥にいた幾島は、薩摩藩の西郷隆盛と密接に連絡を取り合い、徳川将軍家の後継者問題に尽力したと言われています。

もっとも夫である徳川家定は1858年8月に亡くなり、同月には薩摩藩主である島津斉彬も急死をします。結果として第14代将軍となったのは徳川家茂。篤姫の使命が果たされることはありませんでした。

ところで、徳川家茂の正室は孝明天皇の妹である和宮です。

篤姫と和宮の関係は、嫁姑という点から見れば、篤姫が上で和宮は下。一方、身分でいえば一大名の養女に過ぎない篤姫と、天皇の妹である和宮ということで、篤姫が下で和宮が上。

この当時の篤姫と和宮の関係は険悪で、それに伴い幾島も気苦労が絶えなかったと言われています。そのためかどうかは定かではありませんが、1864年に幾島は体調を崩し、一度、大奥を離れたと考えられています。

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幾島の生涯4 戊辰戦争から亡くなるまで

幾島の名前が再び現れるのは幕末の戊辰戦争の時です。戊辰戦争において薩摩や長州は官軍。一方、徳川家は賊軍の中心です。

官軍は徳川家を攻撃するために江戸に向かいます。第15代将軍徳川慶喜(元の一橋慶喜)自身に官軍と戦う意志はなかったようですが、江戸には多くの幕臣がいて官軍と戦う動きを見せています。

江戸が戦場となれば、江戸市中は火の海となり灰燼に帰してしまいます。

江戸無血開城を推進した人物としては勝海舟がいます。実際に勝海舟の功績は多大なものがありますが、勝海舟一人の力で江戸無血開城が成し遂げられたわけではありません。

徳川家の中に残っていた篤姫も官軍に対して書状を送り交渉を試みます。このときに活躍をしたのが大奥に戻っていた幾島です。幾島は篤姫の書状を携え官軍の元に赴き、実際に官軍と交渉をします。

この交渉が直接に江戸無血開城に結び付いたのかは定かではありませんが、少なからず効果はあったと考えられているようです。

幾島は江戸が明治になった1870年(明治3年)。東京でその生涯を閉じています(享年63)。

 

さいごに

江戸城田安門



 

 

 

 

 

 

 

 

この記事では、幾島の生涯と篤姫との関係を時系列でお伝えしてきました。

幾島自身は知名度のある人物ではありませんが、篤姫との関係、あるいは西郷隆盛との関係において、多大な役割を果たした人物と言えそうです。

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