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藤原道長の望月の歌
藤原道長(ふじわらのみちなが、966年~1028年)は、平安時代の公家で政治家。特に摂関政治の時代の代表的人物として知られています。ところで、藤原道長が1018年に詠んだと伝えられる歌はあまりにも有名で「望月の歌」と言われています。
この記事では、望月の歌の意味や時代背景などを簡単にお伝えします。
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望月の歌の意味
望月(もちづき)の歌の意味については様々な解釈があります。歌の意味は詠んだ本人にしかわからないので、正確に知ることは不可能なのかもしれませんが、一般的に解釈されている意味はあります。
それでは、望月の歌とその意味をお伝えします。
望月の歌とは、「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」というものです。
そして、この歌には「この世の中は、私のためにあるようなものだ。望月(満月)と同じように私に欠けるものは何もない。」という意味に解釈されることが多いようです。
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望月の歌の時代背景
望月の歌が詠まれたのは1018年と考えられています。では当時の藤原道長はどのような状況に置かれていたのでしょうか。
藤原道長が権力を掌握するため様々な手法を取っていますが、代表的なのは自分の娘たちを宮中に送り込むことです。
それでは、藤原道長がどのように娘を利用したのかを年表で簡単にお伝えします。
1000年 | 藤原道長は長女の彰子(988年~1074年)を一条天皇の中宮(皇后)にする |
1008年 | 一条天皇と彰子の間に敦成親王(後の後一条天皇)誕生 |
1009年 | 一条天皇と彰子の間に敦良親王(後の後朱雀天皇)誕生 |
1011年 | 一条天皇が従兄弟の三条天皇に譲位 |
1012年 | 藤原道長は二女の妍子(994年~1027年)を三条天皇の中宮(皇后)にする |
1016年 | 三条天皇が後一条天皇に譲位・藤原道長が摂政になる |
1017年 | 摂政を子の藤原頼通に譲る |
1018年 | 藤原道長は四女の威子(1000年~1036年)を後一条天皇の中宮(皇后)にする 望月の歌を詠む |
1028年 | 病死 |
しかし、藤原道長の6人の娘のうち、三人が天皇の中宮になった事実が消えたわけではありません。
藤原道長の家から三人もの皇后が出た。
前代未聞の出来事、藤原道長の権勢が絶大な時に望月の歌が生まれています。
なお、四女の威子が後一条天皇の中宮になったのは、旧暦1018年10月16日。同日夜、実際に満月の下での祝宴の席で、望月の歌は詠まれています。
望月の歌に対する疑問
この記事では、望月の歌の意味や時代背景などをお伝えしました。ところで、望月の歌については大きな疑問があります。最後にその疑問についてお伝えします。
望月の歌がおさめられているのは、藤原実資(ふじわらのさねすけ、957年~1046年)という人物の日記「小右記」(しょうゆうき)です。
藤原道長で有名なのは「御堂関白記」という日記ですが、この中に望月の歌はありませんし、他の史料にも望月の歌の記述はありません。
では、藤原実資はどのような人物だったのでしょうか。
藤原実資の祖父は藤原実頼、藤原道長の祖父は藤原師輔、藤原実頼が兄(長男)、藤原師輔は弟(次男)です。
藤原実資と藤原師輔は又従兄弟の関係にあり、さらに藤原実資は長男の家系でした。
藤原実資も学識豊かで右大臣の位まで昇進していましたが、藤原道長に比べると権力は及ぶべくもありません。
また、藤原実資は957年うまれ、藤原道長は966年生まれと、藤原実資の方が年長でもありました。
そうした経緯から、藤原実資は藤原道長に対して終生批判的であったと言われています。
例えば、999年藤原道長は彰子を中宮にする前段階として、彰子を女御として入内させています。
このとき、公卿の多くがお祝いの和歌を贈りましたが、藤原実資はそれを拒んでいます。
また、藤原道長と三条天皇は不仲で、藤原道長は三条天皇の儀式を邪魔しています。
多くの公暁は藤原道長の権力に屈し、儀式に対しても否定的な態度を取っていましたが、藤原実資は筋が通らないとして儀式を執り行っています。
そして、藤原道長が望月の歌を詠んだ時、藤原道長は藤原実資に返歌を求めますが、これも断っています。
藤原実資は、本来ならば藤原道長より上という意識を持ち、忸怩たる思いも持っていたのかもしれません。
しかし、それ以上に藤原実資には豊かな学識があり、何よりも筋を重んじる人物だったともいわれています。
藤原実資は、藤原道長の専横に対して黙ってはいられなかったのかもしれません。
藤原実資が残した小右記は、978年から1032年までの、政治や儀式、そして社会の様相を記したもので、現在でも貴重な史料とされています。
特に政治面は、当時の藤原道長と子の藤原頼通に批判する部分が多いようですが、一方では藤原道長の能力や人となりについては高く評価していたともいわれています。
藤原実資は、どのような気持ちで望月の歌を日記に残したのでしょうか。
これが望月の歌に対する最大の疑問と言えそうです。
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