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目次
明智光秀と羽柴秀吉の関係とは
この記事では、明智光秀と羽柴秀吉の関係についてお伝えをしていきます。明智光秀と羽柴秀吉は、織田信長に見出され活躍をした武将です。
しかし、明智光秀は謀反を起こして本能寺の変で織田信長を倒しています。
一方、羽柴秀吉は明智光秀を山崎の戦いで打ち破り、最終的には織田信長もなしえなかった天下統一を果たしています。
明智光秀と羽柴秀吉は明暗がはっきりと分かれていますが、一時期は織田家の重臣ともいえる立場で出世を競い合っています。
果たして、明智光秀と羽柴秀吉はどのような関係だったのでしょうか。
この記事では、そのあたりをご紹介していきます。
なお、羽柴秀吉は後に豊臣秀吉となる人物ですが、改姓をするのはもう少し後の時代になります。
この記事では、羽柴秀吉に統一して二人の関係を書き進めていきます。
明智光秀と羽柴秀吉の関係1 織田信長に仕えるまで
明智光秀も羽柴秀吉も後世に名高い武将ですが、生まれた年も生まれた場所もはっきりしていません。事績が明らかになってくるのは織田信長に仕えるようになってからです。
では、織田信長に仕えるまで明智光秀と羽柴秀吉は、どのように過ごしていたのでしょうか。
ここでは一般に言われている説をご紹介していきます。
明智光秀が織田信長に仕えるまで
明智光秀が生まれたのは1528年という説が有力ですが、1516年や1526年という説もあります。織田信長が1534年生まれなので、明智光秀は織田信長よりも年長であったことがうかがえます。
明智光秀は出自もはっきりとしていません。
有力なのは土岐氏の一族で、斎藤道三の娘で織田信長の正室となった濃姫の従兄弟という説ですが、これも確証はないようです。
明智光秀は生年も出自も明らかでありませんが、前半生も謎に包まれています。
分かっているのは越前国の朝倉義景に仕えたこと。
室町幕府第13代将軍足利義輝が暗殺されたのち、足利義輝の弟で諸国を流浪していた足利義昭が朝倉義景を頼ってきたことを契機として、足利家にも仕えるようになったこと。
織田信長の助力で足利義昭が将軍になるころ朝倉家を離れ、足利義昭と織田信長の2人に仕えるようになったこと。
足利義昭が追放されたことを契機として、織田信長だけに仕えるようになったことです。
明智光秀が織田信長に仕えるようになったのは1568年の頃と考えられます。
ただし前述のとおり、この時点の明智光秀は足利義昭と織田信長の2人の主君を持っていました。
羽柴秀吉が織田信長に仕えるまで
羽柴秀吉が生まれたのは1536年とも1537年ともいわれています。明智光秀や織田信長より年少であったことは確かなようです。生まれは尾張国中村ともいわれていますが、こちらについてはいろいろな説があります。
羽柴秀吉の事績が伝わってくるのは、今川氏の家臣松下之綱に仕えるようになったころからで、松下之綱の元を離れた後に織田信長に仕えるようになります。
織田信長に仕えたのは1554年頃とされています。
ただし、武士としてではなく、草履とりなどの小物からスタートをしています。
明智光秀と羽柴秀吉が織田信長に仕えた時期や身分を比べると、
明智光秀が織田信長に仕えたのは1568年で武士として仕えた
羽柴秀吉が織田信長に仕えたのは1554年で小者として仕えた
となります。
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明智光秀と羽柴秀吉の関係2 本能寺の変まで
それでは明智光秀と羽柴秀吉の関係を、本能寺の変まで見ていきたいと思います。
2人にはどの程度の接点があったのでしょうか。
織田信長に仕えたのは羽柴秀吉が先で、明智光秀が後になります。
明智光秀と羽柴秀吉の関係が生まれるのは、明智光秀が織田信長に仕えて以降のことと考えられます。
ここでは、明智光秀が織田信長に仕えた1568年から、本能寺の変が起こる1582年まで、年ごとに2人の活動を追っていきます。
1568年(永禄11年)
明智光秀⇒ 足利義昭と織田信長の仲介役を務める。
足利家と織田家の両方に仕える。
足利義昭上洛の列に加わる。
京都の政務の任にあたる。
羽柴秀吉
⇒ 京都の政務の任にあたる。
明智光秀は織田信長の家臣の列に加わったものの、同時に足利義昭の家臣の身分も有していました。
この時点の明智光秀は、織田家と足利家の仲介役という色合いが強かったものと思われます。
また、明智光秀は名門と言われた朝倉家に仕えていて、有職故実に通じていたとも考えられます。
一方、織田家の家臣は京とは縁がありませんでした。
そうした状況から、明智光秀は織田信長の上洛に際して、京都の政務の任にあたっています。
京都の政務の任にあたったのは、明智光秀、羽柴秀吉、丹羽長秀、中川重政の4人ですが、中心となったのは明智光秀であろうと考えられます。
それ以前に、明智光秀と羽柴秀吉にどの程度の接点があったかは分かりませんが、少なくともこの段階で明智光秀と羽柴秀吉の関係が生まれています。
また2人の関係でいえば、明智光秀が上で、羽柴秀吉が下。主従の関係ではありませんが、織田家での序列はこのようであったと思われます。
1569年(永禄12年)
明智光秀⇒ 三好三人衆が足利義昭を襲った本圀寺の変で足利義昭側に加わる。
羽柴秀吉
⇒ 但馬国に出兵する。
上洛を果たしたとはいえ、当時の織田信長は一大名にすぎません。織田信長は四方に敵を抱えることになります。
この年、明智光秀は足利義昭のそばにいることが多く、羽柴秀吉は但馬国に出兵をしています。
明智光秀と羽柴秀吉の間の関係をうかがい知ることはできません。
1570年(元亀元年)
明智光秀⇒ 金ヶ崎の戦いで殿(しんがり)を務める。
羽柴秀吉
⇒ 金ヶ崎の戦いで殿を務める。
姉川の戦い(近江国)に加わる。
横山城(近江国)城代となる。
志賀の陣に加わる。
明智光秀と羽柴秀吉がともに活躍したのが金ヶ崎の戦いです。
金ヶ崎の戦いは織田信長と朝倉義景の戦いで、当初は織田軍が有利に立っていました。
ところが、織田信長の妹お市の方が嫁いだ浅井長政が裏切ったことで戦局は大混乱。
正面に朝倉、背面に浅井と挟まれた織田信長はすぐさま戦場を離脱します。
しかし、浅井・朝倉軍は織田軍を追撃します。そこで殿を務めたのが、明智光秀と羽柴秀吉の部隊です。
殿とは味方を逃がすために、敵の真正面に立ち、敵の追撃をかわしながら自らも退却する戦法です。
逃げる味方の様子を見ながら、自らも退却する役割は特に難しいものとされ、死をも覚悟しなければいけないものでした。
殿の役割を任されたということは、明智光秀と羽柴秀吉の部隊が優秀であったことがうかがえます。
また、明智光秀も羽柴秀吉も織田家の中では新参の立場。
そのようなこともあったかもしれませんが、殿の役割を果たした明智光秀と羽柴秀吉は織田信長からの評価を一層高めていきます。
なお、羽柴秀吉はその後も浅井・朝倉に対抗する役割を任され、姉川の戦いや志賀の陣に加わっていきます。
金ヶ崎の戦いで殿を務めたことは、明智光秀と羽柴秀吉の評価を高めるとともに、両者が織田家の中でしのぎを削っていくスタートになったのかもしれません。
1571年(元亀2年)
明智光秀⇒ 比叡山焼き討ちの中心となる。
織田信長より近江国滋賀郡を与えられる。
この時期になると、足利義昭と織田信長の仲が険悪になり、織田信長包囲網が築かれていきます。
羽柴秀吉は、浅井・朝倉氏に対峙します。
一方の明智光秀は比叡山焼き討ちの中心となります。また、それまでの戦功により織田信長より近江国滋賀郡を与えられます。
この年、明智光秀と羽柴秀吉の接点は見受けられません。
1573年(元亀4年・天正元年)
明智光秀⇒ 足利義昭の元を離れる。
足利義昭が籠城する槇島城攻撃に加わる。
朝倉氏滅亡後の越前国の行政を担当する。
羽柴秀吉
⇒ 小谷城の戦いに加わる。
長浜城城主(近江国)となる。
この年、織田信長包囲網が崩れていきます。
明智光秀は足利義昭と織田信長を主君としていましたが、足利義昭から離れていきます。
さらに、足利義昭が籠る槇島城攻撃に加わり、最後は足利義昭を追放しています。
浅井氏・朝倉氏とも滅亡しますが、羽柴秀吉は浅井氏の旧領に長浜城を築きます。
1571年に所領を与えられた明智光秀。それに対して羽柴秀吉が所領を与えられたのは1573年。
この段階の出世競争では、明智光秀が一歩リードしていたようです。
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1575年(天正3年)
明智光秀⇒ 長篠の戦い、越前一向一揆との戦いに加わる。
丹波国攻略を命じられる。
羽柴秀吉
⇒ 長篠の戦いに加わる。
長篠の戦いは、織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼の戦いです。この戦いには織田方も数多くの武将が参戦しています。
明智光秀や羽柴秀吉の武功がとりわけ顕著であったわけではないようですし、明智光秀については参戦していないという説もあります。
この年、明智光秀は丹波国攻略を命じられ、平定に数年間を要するようになります。
1576年(天正4年)
明智光秀⇒ 石山本願寺との戦い(摂津国)に加わる。
丹波国攻略を命じられた明智光秀ですが、専念するわけでもなく近畿圏を中心に転戦をしています。
明智光秀と羽柴秀吉の関係で特筆すべきものはないようです。
1577年(天正5年)
明智光秀⇒ 紀州攻めに加わる。
信貴山城の戦い(大和国)に加わる。
丹波国攻略を再開する。
羽柴秀吉
⇒ 上杉謙信と戦う柴田勝家の救援を命じられる。
柴田勝家と対立して織田信長を激怒させる。
信貴山城の戦い(大和国)に加わる。
中国地方攻略を命じられて播磨国に赴く。
明智光秀は近畿圏を中心に転戦し、落ち着いた頃に丹波国攻略を再開します。
明智光秀は丹波国というよりも近畿圏の総司令官のような立場。
あるいは織田信長の直轄軍のような立場で行動をしていたように見受けられます。
織田信長から相当に信用されていたことがうかがえます。
一方の羽柴秀吉は北陸方面の総司令官の立場にいた柴田勝家の元に派遣されますが、柴田勝家と対立し長浜城に戻ってしまいます。
織田信長はこの命令違反に激怒し、一時は命も危なかったようですが、信貴山城の戦いに加わり名誉挽回。
その後、中国方面の総司令官の立場となっていきます。
この時点でも、明智光秀の方が羽柴秀吉よりも重用されていたのではないでしょうか。
1578年(天正6年)
明智光秀⇒ 中国攻めを担当する羽柴秀吉の援軍として播磨国に出陣する。
有岡城の戦い(摂津国)に加わる。
羽柴秀吉
⇒ 中国攻めをすすめる。
明智光秀は近畿圏、羽柴秀吉は中国圏。それぞれ司令官のような立場で各地を転戦しています。
1579年(天正7年)
明智光秀⇒ 丹波国・丹後国を平定する。
羽柴秀吉
⇒ 中国地方の侵攻をすすめるものの摂津国の荒木村重が謀反を起こす。
明智光秀は近畿圏を概ね支配下に置きます。
一方、羽柴秀吉は中国圏攻略に苦労をしています。
1580年(天正8年)
明智光秀⇒ 丹波国を加増される。
細川藤孝・筒井順慶などが寄騎になる。
羽柴秀吉
⇒ 中国攻めをすすめる。
明智光秀は近畿圏攻略の褒賞として新たな領地を得ます。
また細川藤孝・筒井順慶などが寄騎になったことは、織田信長の家臣として一段高いところに上ったことを意味しています。
一方の羽柴秀吉は中国攻めをすすめてはいますが、明智光秀のように十分な成果をあげているとはいえない状況です。
1581年(天正9年)
明智光秀⇒ 京都御馬揃えの責任者となる。
羽柴秀吉
⇒ 中国攻めをすすめる
近畿圏攻略を成功させた明智光秀には大きな役割が与えられます。それは、京都御馬揃えの責任者となったことです。
京都御馬揃えは、天皇を前にして行う軍事パレードのようなもので、織田信長の権威を見せつけるものでもありました。
織田家の他の有力武将よりも時間的に余裕があったこと。京の政情に通じていたことが理由だと思われますが、一大行事を任されたことは明智光秀にとっても大きな名誉でした。
京都御馬揃えには織田家の多くの武将が参加をしていますが、中国攻めに腐心していた羽柴秀吉は参加をしていません。
1582年(天正10年)
明智光秀⇒ 甲州征伐(甲斐国)に加わる。
徳川家康饗応役の任を解かれる。
中国攻めを担当する羽柴秀吉の援軍に加わることを命じられる。
本能寺の変で織田信長を討つ。
羽柴秀吉
⇒ 中国攻めをすすめる。
本能寺の変を知る。
明智光秀は甲州征伐に加わり、武田家を滅亡に追い込みます。
その武田家を滅亡させたことで、武田家と長年抗争を繰り広げていた徳川家康を京に招きます。
その饗応役の任に当たっていたのが明智光秀ですが、任を急に解かれてしまいます。
そして明智光秀に命じられたのが中国攻め。
ただし、明智光秀が中心になるわけではなく、中国攻めを担当する羽柴秀吉の援軍に加わるものでした。
このことは、明智光秀が羽柴秀吉の指揮を受けることを意味しています。
以前、柴田勝家と羽柴秀吉の大きな諍いがありましたが、その時の出来事と構図が似ています。
もちろん、織田信長の命令に逆らえるはずもありませんが、明智光秀にとっては大きな屈辱であったのかもしれません。
その直後に本能寺の変が起こり、明智光秀は織田信長を討ち果たします。
本能寺の変の理由は様々なことが言われていて、はっきりとしたことはわかりません。
ただ、このことが本能寺の変の理由になった。いわゆる怨恨説の一つにあげられることもあります。
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さいごに
本能寺の変で織田信長を倒した明智光秀ですが、その後ほどなく羽柴秀吉との戦いに敗れてその生涯を閉じます。
明智光秀と羽柴秀吉の関係は、明智光秀が織田信長に仕えてから、明智光秀が最期を迎えるまでの約15年間です。
では、実際に2人の関係はどうだったのでしょうか。
明智光秀が織田信長に仕えたころ、織田家は地方の一大名にすぎない存在でした。
織田家そのものが大きくなかったので、明智光秀と羽柴秀吉が直接に接する機会もあったと考えられます。
たとえば、織田信長が上洛したころ、明智光秀と羽柴秀吉は共に京の行政に携わっています。
また、1570年の金ヶ崎の戦いでは、共に殿を務めています。
親密であったかどうかはわかりませんが、明智光秀と羽柴秀吉には接点があったはずです。
しかし、織田家が大きくなるに伴い、織田家の武将は各地に散らばっていきます。
恐らくですが、明智光秀と羽柴秀吉が直接に接点をもつことは少なくなっていたはずです。
ただ、織田信長にはある特質がありました。
それは各武将を競わせるということです。
織田信長は武将の功名心をあおることに秀でていたと思われます。
そのため会うことは少なくなったとしても、逆に各武将間のライバル心は相当に高まっていきます。
明智光秀と羽柴秀吉がお互いをどう思っていたかは定かではありませんが、ライバル心は相当に高かったのではないでしょうか。
明智光秀と羽柴秀吉の関係でいえば、明智光秀が羽柴秀吉をわずかながらもリードしていた。
領地を与えられたのも、司令官のような立場になったのも明智光秀が先です。
さらに織田信長により近い立場にあったのは、羽柴秀吉ではなく明智光秀です。
明智光秀の心中は、羽柴秀吉よりは上にいるという意識がずっとあったとしても不思議できありません。
それが如実に変化をしたのが、徳川家康の饗応役の任を解かれ、羽柴秀吉の援軍を命じられたことです。
織田信長がどのような思いで判断したのかは分かりませんが、明智光秀にとって、この一連の流れが気持ちの変化に大きな影響を与えた可能性はあります。
明智光秀と羽柴秀吉は直接的な関係は案外と薄かったかもしれません。
でも織田信長にあおられ、2人は強烈なライバル意識を持ちづけた。
記録に残っているわけではないので断言はできませんが、そのような可能性は相当に高いような気がしています。
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