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明智光秀の天海説とは!同一人物という噂を調べてみました

最終更新日:2018-11-07
明智光秀像

はじめに

どんなに有名でも、歴史上の人物には不思議な噂がつきまといます。

その一つが、明智光秀「天海説」。明智光秀「天海説」は、明智光秀と天海は同一人物であるという説ですが、この説は単なる噂なんでしょうか、それとも本当なんでしょうか。

この記事では、明智光秀「天海説」が生まれた原因や、同一人物説が噂なのか、あるいは本当なのかを考えてみることにしました。

明智光秀と天海の略歴

まずは明智光秀と天海、それぞれの略歴について調べてみました。

明智光秀の略歴

1528年頃 美濃国に生まれる(諸説あり)
1556年頃 越前朝倉義景に臣従する
1568年頃 足利義昭に臣従する
1571年 近江国坂本城主となる
1573年 織田信長に臣従する
1582年6月2日 本能寺の変で織田信長を倒す
1582年6月13日 6月13日 山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ死去

南光坊天海の略歴

1536年頃 陸奥国に生まれる(諸説あり)
不明 出家して随風と名乗り各地で修行
1588年 川越の喜多院に移り天海と名乗る
不明 徳川家康の参謀となる
1643年 108歳で死去

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明智光秀も天海も歴史上有名な人物でありながら、その履歴がはっきりとしていないことに特徴があります。

明智光秀は、織田信長に仕えるまでの前半生が謎に包まれています。一説に、美濃国の有力豪族で斉藤道三に仕えた。あるいは織田信長の正室であった濃姫と従兄弟だったなどと言われてはいますが、生年も含めてその履歴は確定していません。

天海も同様で、天海の足跡をはっきりと確認できるのは徳川家康に仕えてから。100歳以上の長命を保ったことは確かと言われていますが、生年も不明なら徳川家康に仕えるまでの履歴も諸説あって、はっきりしていません。

明智光秀も天海も生年を含めわからないことがたくさんある。そして、概ね同時代を生きている。仮に山崎の戦いで明智光秀が生き延びていたとしたら、明智光秀の天海説はにわかに真実味を帯びてきそうです。

明智光秀「天海説」の根拠とは

天海に縁の深い日光東照宮

日光東照宮



それでは明智光秀と天海の同一人物説の根拠についてお伝えしていきます。前述のとおり、明智光秀の天海説の根拠としては、明智光秀と天海の履歴が不鮮明であることと、そして同時代を生きたことが挙げられます。

ただそれ以外にもいくつかの根拠があるようなので、それを列記してみます。

 

○ 明智光秀は山崎の戦いで亡くなったとされているが遺体が発見されなかった。

○ 天海は日光東照宮に深く関わっていたが、そこには明智家の家紋である桔梗紋が多く見られる。

○ 日光東照宮の近くに明智平と呼ばれる場所があるが、その命名は天海が行ったとされる。

○ 明智光秀寄進の灯篭が比叡山にあるが、その寄進日は本能寺の変の20年後になっている。

○ 徳川2代将軍は「秀忠」、3代将軍は「家光」でそれぞれ明智光秀の名前が一字ずつ使われている。

○ 明智光秀の家臣だった斎藤利光の娘お福(後の春日局)は、天海の希望で徳川家光の乳母になった。

○ 明智光秀と天海の筆跡鑑定をした結果、本人かまたはそれに近い人物という鑑定結果が出ている。

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明智光秀=天海説 同一人物の噂は本当なの

明智光秀と天海は同じ時代に生きながら、その生涯はあいまいな部分が多い。また、明智光秀と天海が同一人物である証拠はたくさんある。それが明智光秀の天海説が生まれる根拠になっています。

ただし、上記の証拠の中には現時点で否定されているものもあるようです。

 

そのいくつかを挙げると

○ 日光東照宮にある桔梗紋は、明智家の桔梗紋とは異なる。

○ 灯篭は偽造である可能性が高い。

○ 徳川家光の名付け役は、天海のライバルと目されていた金地院崇伝である。

○ お福はそもそも斎藤利光の娘だったのか、出自そのものがはっきりとしていない。

 

明智光秀「天海説」を肯定するものもあれば、否定するものもあるようです。そして、現時点では明智光秀と天海の同一人物説を否定する意見の方が強いようですが、果たしてどうでしょうか。

特に明智光秀「天海説」の根拠の一つとなった筆跡鑑定は気になるところです。筆跡鑑定は科学の力によってもたらせたもの。筆跡鑑定は明智光秀と天海の筆跡は「本人かまたはそれに近い人物」と結論づけています。

そこで出てくるのは、明智光秀と天海の同一人物説を否定したうえでの、明智秀満「天海説」。

明智秀満は明智光秀の甥で山崎の戦い後に自刃したと伝えられています。しかし、明智秀満の履歴もはっきりとはしていませんし、亡くなった時期も明確ではありません。

仮に明智秀満が明智光秀の甥で、山崎の戦い後も生き延びていたとしたら。。。

年齢的には天海とさらに近くなりますし、明智秀満は明智光秀ほどの知名度はありません。明智秀満が名を変えて天海として徳川家康に仕えたとしても大きく騒がれることはありません。

こちらは明智光秀と天海の同一人物説よりもさらに根拠が薄いものにはなりますが、歴史ファンのロマンを掻き立てる噂にはなりそうです。

まとめ

明智光秀像

明智光秀像



明智光秀「天海説」は以前から言われていることで、実際にいくつもの根拠が見出されています。もちろん、それぞれの根拠を否定する意見や根拠もあるので、現在、明智光秀と天海の同一人物説は否定されつつあります。

でも100%否定されているわけではありませんし、100%否定できるだけの根拠もまだないというのが実際のところのようです。さらに最近では、明智秀満「天海説」も出てきているようです。

この同一人物説、将来的に真実がわかるかどうかは不明ですが、歴史ファンにとって興味が続くことは確かなようですね。

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こんにちは!風来爺です。年金を受け取る年齢ではないものの最近は体力の衰えを感じる自由人です。大学時代はアルバイトばかりしていましたが一応は日本史専攻、そして今は田舎に住んでいて季節の移り変わりを楽しんでいます。そんなことから、このサイトでは季節や歴史の話題を中心に思いつくままいろいろなことを書いています。

人間は柔らかいのですが、文章は硬くなりがちです。読みにくい部分もあるかと思いますが末永くお付き合いください。

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