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島津斉興と島津斉彬親子の対立!その理由をお伝えします

はじめに

幕末維新の原動力となった薩摩藩。

その薩摩藩が幕末を迎える直前に大きなお家騒動(お由羅騒動)がありました。

このお家騒動の原因となったのが、薩摩藩主である島津斉興(しまづなりおき)と、島津斉興の嫡男である島津斉彬(しまづなりあきら)の対立です。

この記事では、どうして島津斉興と島津斉彬の親子は対立をしたのか。

まずは、この記事で登場する薩摩藩主をご紹介し、そのうえで島津斉興と島津斉彬親子の対立の理由をお伝えしていきます。

 

薩摩藩

第8代藩主 島津重豪(しまづしげひで 1745年~1833年 享年87)

第9代藩主 島津斉宣(しまづなりのぶ 1774年~1841年 享年68)

第10代藩主 島津斉興(しまづなりおき 1791年~1859年 享年67)

第11代藩主 島津斉彬(しまづなりあきら 1809年~1858年 享年49)

第12代藩主 島津忠義(しまづただよし 1840年~1897年 享年57)

島津斉興(しまづなりおき)とは

島津斉興は、1791年に薩摩藩第9代藩主島津斉宣(しまづなりのぶ)の子として生まれます。

しかし1809年、島津斉興の祖父である島津重豪(しまづしげひで)と、父の島津斉宣との対立により起きたお家騒動(近思録崩れ)により、島津斉宣は隠居。

島津斉興は島津斉宣を継いで、薩摩藩第10代藩主となります。

薩摩藩第10代藩主となった島津斉興ですが、政治の実権は薩摩藩第8代藩主であった祖父の島津重豪が握り続けます。

島津斉興が実権を握るのは、島津重豪が亡くなった1833年以降と言われています。

島津斉興が政権を握って、特に力を入れたのは薩摩藩の財政改革。

華美な生活を好んだ祖父の島津重豪により、薩摩藩は膨大な借財を抱えていました。

そこで島津斉興は調所広郷を重用し、結果として薩摩藩の財政は大きく改善をします。

しかし、良いことばかりではありません。

その後に起こったのが、いわゆるお由羅騒動です。

お由羅騒動とは、簡単に言えば島津斉興の後継者争いです。

島津斉興には正室との間に生まれた、嫡男である島津斉彬がいました。

また、島津斉興と側室(お由羅の方)との間には、島津斉彬の弟である島津久光がいました。

長子相続の原則から言えば、正室との間に生まれた子である島津斉彬が正統な後継者でしたが、島津斉興は島津斉彬を嫌い対立関係にあったと言われています。

そのため、島津斉興は島津斉彬を廃して、島津久光を後継者にしようと画策しました。

この状況が背景となって起こったのがお由羅騒動です。

結果として島津斉興は隠居、1851年に島津斉彬は薩摩藩第11代藩主に就きます。

その後、1858年に島津斉彬は急死をします。

島津斉彬の急死については、毒殺ではないかという説があり、首謀者は島津斉興ではないかという噂もあるようです。

その真偽は定かではありませんが、島津斉興は新たな藩主となった島津忠義(島津久光の子)の政治に介入。

1859年、69歳で亡くなるまで、その状況は続いたとされています。

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島津斉興と島津斉彬対立の理由とは


 

 

 

 

 

 

 

前述のとおり、島津斉興と島津斉彬の間には、対立の構図がありました。

では、島津斉興と島津斉彬対立の理由には、どのようなものがあったのでしょうか。

その理由を2つほど探ってみました。

島津斉興と島津斉彬対立の理由1

島津斉興と島津斉彬対立の理由としてよく言われているのが、島津斉興の正室である弥姫(いよひめ)と側室であるお由羅の方の存在です。

島津斉興は正室である弥姫とは仲が悪く、側室であるお由羅の方を寵愛した。

そのため、正室である弥姫との間に生まれた島津斉彬を疎んじ、側室であるお由羅の方との間に生まれた島津久光を愛した。

正室と側室の関係から、島津斉興と島津斉彬は対立するようになったと言われています。

島津斉興と島津斉彬対立の理由としてはわかりやすいものですが、これには疑問も示されています。

それは、島津斉興は正室である弥姫との間には、5人の子が誕生をしていることです。

また、弥姫は1824年に34歳の若さで亡くなっています。

子を多く設けていて、しかも弥姫は早くに亡くなっている。

果たして、島津斉興と弥姫に対立が生まれ、仲違いをするような時間はあったのだろうか。

島津斉興と弥姫の不仲というのは否定はできないまでも、疑問が生じるのが実際のところではないでしょうか。

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島津斉興と島津斉彬対立の理由2

島津斉興と島津斉彬対立の理由の2つめは、対立の原因が島津重豪にあったというものです。

前述しましたが、島津重豪は島津斉興の祖父、島津斉彬にとっては曾祖父に当たる人物です。

薩摩藩は外様大名として幕府から多大な負担を強いられていて、薩摩藩の財政は困窮をしていました。

その困窮に輪をかけたのが、島津重豪です。

島津重豪は蘭癖大名として知られていました。

蘭癖大名とは簡単に言えば西洋の学問や技術を積極的に取り入れるということですが、これに対する設備投資などには多額の費用を必要としました。

ただでさえ苦しい薩摩藩の財政をさらに窮地に陥れたのが島津重豪です。

したがって、島津斉興が薩摩藩の当主になった時、まずしなければならなかったのが薩摩藩の財政改革で、改革推進のため島津斉興は大きな苦労を余儀なくされたと言われています。

島津斉興にとって、島津重豪は血のつながった祖父です。

軽んじることは絶対にできませんが、快く思っていたとも考えられません。

もしかしたら島津斉興は祖父である島津重豪に対して、相当な憎しみを持っていた可能性もあります。

その島津重豪が特に可愛がっていたのが、ひ孫である島津斉彬です。

島津斉彬の才能を見出した島津重豪は、自ら島津斉彬の養育に乗り出します。

それだけであれば問題はなかったはずですが、島津重豪は積極的に西洋学問を島津斉彬に伝えようとして、島津斉彬もその知識をどんどんと吸収をしていきます。

島津斉興にすれば、祖父である島津重豪の放漫財政のせいで苦労をさせられている。

ようやく薩摩藩の財政を立て直すことはできたが、薩摩藩を島津重豪の薫陶を受けた島津斉彬に委ねてしまったら、また放漫財政に戻ってしまう。

このような危惧が理由となって、島津斉興と島津斉彬は対立関係に陥った。

島津斉興と島津斉彬対立の理由として、こうした意見を取り上げる人も多いようです。

さいごに


 

 

 

 

 

 

 

この記事では、島津斉興と島津斉彬の対立の理由についてお伝えをしてきました。

ところで、島津斉彬は幕末きっての名君として知られています。

そのため、父であるにもかかわらず、島津斉彬が薩摩藩主になることを邪魔した島津斉興の評価は必ずしも高いものではありません。

では、島津斉興は暗君だったのでしょうか。

島津斉興は薩摩藩の財政を立て直しています。

その一事をとっただけでも、島津斉興を暗君とするには躊躇を覚えます。

また、島津斉興が薩摩藩の財政を立て直したからこそ、薩摩藩が幕末維新の原動力になることができたとも考えられます。

もちろん、島津斉興のすべてを「是」とすることはできないかもしれませんが、島津斉興はもっと評価されても良いのではないか。

個人的にはそのように思っています。


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