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村田新八とは!西郷隆盛や大久保利通との関係をご案内

城山から桜島を望む
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はじめに

村田新八は、どのような人物だったのか。村田新八と西郷隆盛は、どのような関係だったのか。そして、村田新八と大久保利通は、どのような関係だったのか。

この記事では、村田新八の人物や西郷隆盛や大久保利通との関係を伝えしていきます。

村田新八とは

村田新八は、18836年に生まれ、1877年に亡くなります。生まれた場所は、薩摩国鹿児島城下の加治屋町(かじやちょう )。

薩摩藩は幕末に多くの人材を生み出していますが、とりわけ加治屋町は著名な人物の出身地として知られています。

加治屋町出身の人物をあげると、西郷隆盛、大久保利通、有馬新七、吉井友実、黒木為楨、西郷従道、大山巌、山本権兵衛、東郷平八郎、樺山資紀などがいます。

この中で、村田新八の生涯に大きな影響を与えたのは西郷隆盛と大久保利通。西郷隆盛や大久保利通との出会いがあったからこそ、村田新八は世の中で知られた人物になったのかもしれません。

それでは、村田新八の略歴からご案内をしていきます。

村田新八は高橋家に生まれましたが、幼くして村田家の養子に入っています。薩摩藩では年長の者が年少の者を育てるという風習がありましたが、村田新八は8歳年上の西郷隆盛を幼いころから慕っていたと伝えられています。

その後、村田新八は西郷隆盛とともに尊皇の志士として活動をします。

西郷隆盛は薩摩藩主島津斉彬に見いだされ活動を始めますが、島津斉彬が亡くなった後に実質的に薩摩藩を治めた島津斉彬の弟である島津久光とは折り合いが悪いことで知られていました。

実際、1862年には島津久光の怒りをかった西郷隆盛は沖永良部島に遠島。行動を共にしていた村田新八も喜界島に遠島となります。

1864年、西郷隆盛は赦免をされます。このとき西郷隆盛は薩摩に戻る途中に喜界島に立ち寄り、まだ赦しが出ていない村田新八を薩摩に連れ帰っています。

赦しの出ていない村田新八を、これも罪人扱いされていた西郷隆盛が勝手に連れ帰ったのは、薩摩藩にとってみれば大罪に当たります。しかし、西郷隆盛はこのことを平然と行ってしまいます。

村田新八は西郷隆盛に大きな恩義を感じることになりますが、言い換えればこの出来事が村田新八の一生を決定づけたともいえます。

幕末に際して、村田新八は西郷隆盛に付き従います。1868年に始まった戊辰戦争では西郷隆盛の元、中村半次郎や篠原国幹とともに部隊を指揮する役割を担っています。

明治維新後、村田新八は明治新政府の中で働きます。特に1871年に明治政府が行った欧米視察に随行するなど、新政府の中でも将来を嘱望されていました。

しかし帰国後に、征韓論に敗れた西郷隆盛が下野して薩摩に帰ったと知ると、村田新八も職を辞し薩摩に戻ってしまいます。

薩摩に戻った村田新八は、前述の中村半次郎や篠原国幹とともに私学校の設立に尽力。村田新八は、私学校の中で設けられた砲隊学校の長になります。

1877年、私学校と明治政府の軋轢が元で西南戦争が起こります。このときも村田新八は西郷隆盛に従い西南戦争に参加。

最終的に西郷隆盛は薩摩国の城山で自決をしますが、西郷隆盛の死を見届けた村田新八は明治政府に戦いを挑み、戦死をしています。

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村田新八の評価と大久保利通との関係とは

村田新八終焉の地の城山から桜島を望む城山から桜島を望む

村田新八は若くして生涯を閉じています。また、西郷隆盛や大久保利通と比較すると目立たない人物であるため、村田新八の評価はそれほど聞こえてはきません。

しかし、村田新八の評価はとても高いものであったようです。

たとえば、幕末に江戸幕府の側で要職にあった勝海舟は「明治政府の中で、大久保利通がいなくなっても村田新八がいる」と、村田新八をとても高く評価をしています。

これは、村田新八には日本の宰相になるほどの人物だということで、一説には村田新八は大久保利通の後継者であるとも言われていたようです。

また、大久保利通自身も村田新八を高く評価していて、村田新八が西郷隆盛を追いかけ薩摩に戻った時は、その報を聞き茫然自失の状況であったとされています。

勝海舟や大久保利通など幕末から明治を生き抜いた一流の見識を持つ人物が、揃って村田新八を高く評価していた。仮に村田新八が西郷隆盛に従うことなく明治政府で働いていたならば、その後の日本の形は変わっていたのかもしれません。

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村田新八と西郷隆盛の関係とは

村田新八と西郷隆盛の関係は、村田新八の幼少期から深いものがあったようです。特に、西郷隆盛が喜界島に遠島になっていた村田新八を薩摩に戻した。

この出来事が、西郷隆盛と村田新八の関係を決定づけたようで、村田新八は西郷隆盛に対して深い感謝の念と尊敬の念を抱いたようです。

明治政府の中での村田新八は、大久保利通の考え方に共鳴を受けていたと言われています。特に大久保利通と共に行った欧米視察で、新国家建設に対して私利私欲のないの思いを持つ大久保利通には深く感銘を受けたようです。

そのため、征韓論に際しての村田新八は、理屈としては大久保利通の意見の方が正しい。噂の域に過ぎませんが、そのような見解を述べたとも言われています。

村田新八にすれば、理では大久保利通の見解を支持しながらも、義では西郷隆盛。このように思っていたのではないでしょうか。やはり喜界島の一件が、村田新八と西郷隆盛の関係を決定づけ、村田新八の生涯も決めてしまったようにも思われます。

さいごに

西郷隆盛が籠った城山の洞窟西郷隆盛が籠った城山の洞窟

西郷隆盛は大きな磁石のような存在でした。西郷隆盛の魅力に惹かれる人は徹底的に西郷隆盛に従い、反発する人は西郷隆盛の存在を疎ましく思う。

西郷隆盛の魅力に惹かれる人の一人が村田新八です。村田新八は、勝海舟や大久保利通など周囲の人物から高く評価をされていました。それでも、西郷隆盛の魅力にひきづられて大久保利通から離れて西郷隆盛に従い、そして短い一生を終えてしまっています。

1867年に西郷隆盛は亡くなります。そして西郷隆盛に敵対をした大久保利通も1868年には暗殺されて亡くなります。そのとき、村田新八がいたらどうなっていたのだろうか。空想の域を出ませんが、とても興味を掻き立てられます。

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