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はじめに
明治維新では多くの人々が活躍をしています。多士済々の人物群の中でも、とりわけ人気が高いのが西郷隆盛です。
では、どうして西郷隆盛は現在でも多くの人に愛されているのでしょうか。
この記事では、西郷隆盛の性格を4点ほどエピソードを入れながらご紹介し、西郷隆盛の人となりを探っていきたいと思います。
西郷隆盛の性格1 強い信念を持っている
西郷隆盛は、大久保利通や木戸孝允とともに明治維新三傑の一人に数えられています。明治維新という大事業を成し遂げたことをみても、西郷隆盛は強い信念を持っていた人物であることは容易に想像ができそうです。
ところで、西郷隆盛を見出したのは薩摩藩主である島津斉彬です。
有能であったからこそ、薩摩藩の下級武士に過ぎない西郷隆盛は世に出たわけですが、島津斉彬は西郷隆盛について、次のようなことを語っていたというエピソードが残されています。
そのエピソードとは、「西郷隆盛はとても自尊心が強く、自分(島津斉彬)でなければ使いこなすことができない」というものです。
実際、西郷隆盛は島津斉彬に対しては従順でしたが、島津斉彬亡き後に薩摩藩の実質的藩主となった島津久光(島津斉彬の弟)に対しては「じごろ(田舎者の意)」と言い放っています。
主従関係がはっきりしていた時代にあって、西郷隆盛の放言は命がけともいえるものです。
西郷隆盛は、薩摩藩にとって必ずしも忠義の士というわけではなく、むしろ主君にふさわしい人物でなければ認めないといった、強い信念を持っていた人と言えそうです。
また、西郷隆盛は表裏のない穏やかな人物として親しまれていますが、明治維新を迎えるまでは、むしろ戦略家・謀略家という一面が目立っていました。
さらに、西郷隆盛は味方に対しては大きな包容力を持っていると言われていましたが、反面、敵に対しては厳しい処断をすることもあったようです。
西郷隆盛については、島津斉彬と島津久光への接し方の違い、戦略家・謀略家という一面、敵と味方に対する態度の違いなど、さまざまに二面性が語られています。
西郷隆盛の二面性は、目的を達成するためには手段を選ばないという、強い信念を背景に生み出されたものであるように思われます。
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西郷隆盛の性格2 度量が大きい
西郷隆盛には、いくつかの愛称があります。
有名なところでは「西郷どん」や「南洲翁」がありますが、「うどさぁ」も知られています。
「うどさぁ」は元々は「ウドの大木」から来ているという説があります。
ウドの大木は、体ばかり大きくて役に立たない人のたとえとして使われることことが多いことわざとして知られています。
西郷隆盛は幼少の頃から体が大きく、普段は茫洋としていたので、つけられた愛称とも言われています。
これが西郷隆盛の愛称の由来だとすると、必ずしも褒め言葉とは言い難いところですが、薩摩の言葉で「うどさぁ」は偉大な人を意味するという意見もあるようです。
「うどさぁ」がどちらの意味を持つにしても、この言葉は西郷隆盛の度量の大きさをイメージさせるものです。
また、西郷隆盛の度量の大きさを示すエピソードとしては、坂本龍馬の有名な言葉があります。
勝海舟の勧めにより西郷隆盛に面会をした坂本龍馬は、面会が終った後に勝海舟に西郷隆盛のイメージを次のように語っています。
「西郷隆盛はよくわからない人物である。(お寺の鐘のように)小さくたたけば小さく鳴り、大きくたたけば大きく鳴る。西郷隆盛は、大きな馬鹿か、あるいは大きな利口である。」
坂本龍馬は薩長同盟を締結させるなど、明治維新を推進した人物の一人として知られています。
その坂本龍馬でさえ、西郷隆盛の度量の大きさをつかみかねていたようです。
また、西郷隆盛は誰の意見であってもきちんと聞く人物で、周囲の人々も西郷隆盛ならば自分の考えをきちんと聞いてくれる人物だと思っていました。
多くの人にとって、西郷隆盛は度量が大きいだけではなく、話を聞いてくれて頼れる人物であると映っていたようです。
西郷隆盛の性格3 清貧である
西郷隆盛は、私心がなく清貧であったというのは、よく聞かれる西郷隆盛評です。西郷隆盛は薩摩藩の下級武士から明治維新を成し遂げ、明治政府の中でも要職にありました。
同じような境遇をたどった人物は西郷隆盛だけではありません。
しかし、そうした経緯をたどった人物の多くは、明治に入り政府の高官になると豪奢な生活を送るようになります。
西郷隆盛自身はこうした風潮を嫌っていて、自らは質素な生活を続ける一方、明治政府の高官の堕落に対しては厳しい態度をとり、激しく糾弾したというエピソードが伝えられています。
一方、明治維新に尽力していた人々の多くは、明治政府になりむしろ困窮の度合いを深めていました。
特に江戸時代に武士階級にあった人たちは禄を失い、生活の術を失っていました。
このことを憂いていたのが西郷隆盛で、困窮する人々の活路を求めるべく様々な活動をしていたと言われています。
1867年に西南戦争で敗死した西郷隆盛ですが、西南戦争の遠因を清貧な心を持ち続け、困窮する人々を放置できなかった、西郷隆盛の性格にあったと考える識者も多いようです。
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西郷隆盛の性格4 淡泊である
西郷隆盛は信念の強い人で、目的を果たすためには手段を選ばない人であったと言われています。
確かに目的を達成するまでは、強い執着心を持ち続けた人物であったのかもしれません。
一方、自分の目的が果たせないと思ったとき、あるいは自分の役目が終ったと思ったときの西郷隆盛には逃避癖や隠遁癖がありました。
西郷隆盛は生涯の中で、何回か死を選ぼうとしたことがエピソードとして知られています。
例えば、主君であり師とも仰いでいた島津斉彬が急死したときは殉死をしようとしています。
このときは、僧の月照に止められて思いとどまりますが、その後、月照自身が追い詰められたときには月照とともに海に身投げをします。
このとき、月照は亡くなりますが、西郷隆盛は一命をとりとめています。
また、明治になってからの西郷隆盛は、明治維新という大きな目標を成し遂げたためなのか、むしろ死に場所を求めるようになっています。
たとえば、征韓論の時には自らが韓国に乗り込んで、死ぬことはまったく厭わないと述べています。
さらに西南戦争が起こった時は、共に決起をした人々に対して「おいどんの命は、おはんらにあげもうそ」と語っています。
また、西南戦争で最期を迎えたときには、かたわらにいた別府晋介に対して「晋どん、もう、ここらでよか」と自らの首を差し出し介錯を依頼しています。
西郷隆盛は目的に対しては極めて貪欲であったけれども、それ以外については淡泊であった。
とりわけ自らの命に対しては、淡泊な考え方をする人物であったように思われます。
まとめ
この記事では、西郷隆盛の性格をエピソードを交えてお伝えしてきました。ところで、西郷隆盛の事績をみると、西郷隆盛が本当に輝いていたのは戦略家として活躍をした明治維新までのように思われます。
明治以降はむしろ鬱屈することの方が多く、征韓論で敗れて下野し、最終的には西南戦争で敗死するなど、政治家としては不向きな側面もあったようです。
それでも、西郷隆盛が今でも多くの人々に慕われているのは、
信念があり、揺るぎのない人物であった
度量が大きく、人々に信頼されていた
清貧であり、贅を嫌い、困窮する人々に心を寄せていた
淡泊であり、自分の命さえ顧みなかった
西郷隆盛は、複雑な性格を持つ人物であったといわれることもあるようです。
でも、それは西郷隆盛が大きすぎて、西郷隆盛を見極めることができなかっただけなのかもしれません。
西郷隆盛。
会えるものならば、会ってみたい人物です。
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