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真田信幸が真田信之に改名した理由と効果とは
真田信幸は真田昌幸の長男で、幼名は源三郎。元服して真田信幸となります。しかし、あることをきっかけに改名、真田信之となります。
真田信幸も真田信之も、読みは「さなだのぶゆき」。
読みは変わりませんが、改名には深い理由が込められています。また、改名したことで興味深い効果もでてきました。
この記事では、真田信幸が真田信之に改名した理由と効果についてお伝えをしていきます。
真田信幸とは
真田信幸は1566年に生まれ1658年に亡くなります。93歳、当時としては極めて異例ともいえる長寿を全うしています。真田信幸は、それほど知名度の高い人物ではありません。
真田信幸は信州松代藩の祖となりますが石高は10万石。一廉の人物であることは間違いないものの、それだけで名前を後世に伝えることはできなかったはずです。
真田信幸が有名なのは、その一族に抜群の知名度を誇る人物がいたためです。真田信幸の父は真田昌幸、そして弟には真田幸村がいます。
真田昌幸は、豊臣秀吉から「表裏比興の者」と賞され、また徳川家康を戦いで2度破った武将として有名です。
また真田幸村は大坂の陣で豊臣家に味方、真田丸を築いて徳川家康を窮地に陥れた人物として知られています。
父や弟に比べて真田信幸は目立たない存在ですが、実利を挙げたのは真田信幸です。
真田昌幸は徳川家康により九度山に追放、1611年にその地で終焉を迎えています。
また、真田幸村も1615年の大坂夏の陣で討死。
父も弟も不遇の死を迎えたのに対して、真田信幸は江戸時代も生き残り、大名として生涯を終えています。
知名度においては劣るものの、実際に得たものは真田信幸が一番であったのは間違いないようです。
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真田信幸が改名した理由とは
1566年に生まれた源三郎は、1579年に元服して真田信幸を名乗ります。当時は末期とはいえ戦国時代。元服後の真田信幸は各地を転戦します。
真田信幸は知だけではなく武にも優れた武将として成長します。それが如実に表れたのが、1585年の第一次上田合戦。
第一次上田合戦は、真田勢2000人と徳川勢8000人が対峙した戦い。
数的には徳川勢が圧倒的に有利でしたが、真田昌幸と真田信幸親子は知略と武略を尽くして徳川勢を駆逐。真田勢の勝利に終わりました。
第一次上田合戦は、真田信幸の生涯を決定づける大きな戦いとなりました。それは真田信幸の戦いぶりを見て、敵方の徳川勢が評価したためです。
結果的に真田信幸は徳川四天王の一人である本多忠勝の娘、小松姫を正室に迎えます。
また、小松姫は徳川家康の養女となり嫁いだということで、真田信幸は本多家だけでなく形式上は徳川家とも縁戚になります。
真田信幸が本多家の縁戚になったことが、後日、真田信幸改名の理由となります。
さて、豊臣秀吉により天下は統一されましたが、豊臣秀吉が亡くなると徳川家康が天下を伺い始めます。
それが表面化したのが1600年の関ヶ原の戦い。
このとき、真田家は2つに分裂します。
一つは石田三成の西軍に与するというもの。西軍についたのは真田昌幸と真田幸村です。
一説に真田昌幸が西軍についた理由は、徳川家康が嫌いだったからとも言われています。
しかし、真田昌幸と真田幸村が西軍についたのは、やはり縁戚という理由が大きいようです。
真田昌幸の正室は、石田三成の妻と姉妹でした。
また、真田幸村の妻は石田三成の刎頸の友と言われた大谷吉継の娘。
異説もありますが、真田昌幸も真田幸村も、西軍の将と深い結びつきがあったと言われています。
もう一つは徳川家康の東軍に味方するというもので、こちらには真田信幸が入ってきます。
理由は西軍に味方した真田昌幸と真田幸村と同じもので、真田信幸は徳川家と縁戚関係にあったためです。
戦いの結果は、東軍の勝利。
西軍に与した真田昌幸も真田幸村は死罪になるはずのところ、真田信幸の助命嘆願により九度山追放で収まります。
一方の真田信幸は、勝者に属していたため所領も増えましたが、それで安堵できるものではありませんでした。
それは一族である真田昌幸と真田幸村が西軍についたことが理由です。いくら真田信幸が徳川家に忠誠を誓っていたとしても、それを疑う空気もあります。
そのため、真田信幸は真田信之に改名せざるを得なくなりました。
真田信幸の「幸」の字は、父である真田昌幸から受け継いだものです。
父の昌幸の「幸」の字を使うことを慮った真田信幸は関ヶ原の戦いの後、真田信之と改名します。
真田信幸が真田信之に改名した理由は、徳川家に慮ったためと言えそうです。
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真田信之が改名した効果とは
真田信幸が真田信之に改名したことで得られた効果の第一は真田家の存続です。真田信之は東軍に属したものの、真田昌幸や真田幸村の助命嘆願をしたことにより、疑いを持つ人物も多くいました。
また徳川家は、豊臣恩顧の大名の存在を強く恐れていました。
そのため、真田昌幸や真田幸村の助命は成功したものの、真田信幸は肩身の狭い思いをしていたようです。
しかし、真田信幸が真田信之に改名したことは、父である真田昌幸と決別したことを意味し、徳川家への忠誠を信じさせるのに大きな効果があったと言われています。
また、改名は思わぬ効果を生み出しています。それは真田信之の弟、真田幸村についてです。
真田幸村は真田信繁という名前でも知られていますが、信繁という名前は武田信玄の弟で信望篤かった武田信繁にあやかったものと言われています。
真田信繁は武田家の家臣として勢力を伸ばしてきた真田家にとっては大切な名前。普通であれば、改名する理由などなかったはずです。
真田幸村という名前は、真田信繁の自筆文書には残されておらず、江戸時代に入ってからの創作という説もあります。
しかし、一方では真田信繁は真田幸村と名乗っていたという説もあります。
本人が真田幸村と名乗っていたからこそ、後世の文書にも真田幸村という名前が見られた。最近は後者の説が強くなっているようです。
では、真田信繁はいつ真田幸村となったのか、改名の理由は何処にあるのかということです。
あくまでも推測の域は出ないようですが、真田信繁が真田幸村を名乗ったのは、1614年の大坂冬の陣で大坂城に入ってから。
大坂城に入城後、真田信繁は真田幸村に改名したと考えられています。
また、改名の理由です。
先ほど書いたとおり、関ヶ原の戦いで兄の真田信幸は真田信之に改名をしました。この段階で、真田家には「幸」の字を継ぐ者がいなくなってしまいました。
大坂の陣は、真田信繁にとっても命を懸けた戦いです。その大事な戦いに臨む前に、真田家の「幸」の字を継いでおきたい。
それが真田幸村、改名の理由になったとも考えられています。
さいごに
この記事では、真田信幸が真田信之に改名した理由と、改名による効果についてお伝えしてきました。
真田信幸が真田信之に改名した理由はどうやらはっきりとしています。また、真田家の存続と改名による効果もわかりやすいものです。
ただ、真田信之の改名の効果が真田幸村にも及んでいるとは。。。
もちろん確定した意見ではありませんが、興味深いところです。
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