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大庭景親は石橋山の戦いでの勝利が運命を決定づけた!

現在の石橋山付近
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はじめに

大庭景親(おおばかげちか、不詳~1180年)は、1180年の石橋山の戦いで勝利をします。

しかし、その勝利は大庭景親の運命の暗転を決定づけてもいます。

この記事では、石橋山の戦いが大庭景親の運命をどのように決定づけたのか、簡単にご紹介していきます。

大庭景親とは

大庭景親は、平氏の流れを汲む一族です。

ただ、その身分は相模国の一部(現在の茅ヶ崎市・藤沢市あたり)の荘園を管理する下級役人のようなもので、傑出したものではありませんでした。

平氏の流れを汲むとは言いながらも、1156年の保元の乱では源義朝の軍に参加し、勝利を得ています。

1159年の平治の乱で源義朝は敗死しますが、この時点で大庭景親は源氏ではなく平氏に接近。

平治の乱を契機に、源氏だけでなく、周辺で源氏に味方をしていた武将の多くが没落したのに対して、大庭景親はむしろ勢力の拡大に成功しています。

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石橋山の戦い

平治の乱後、平氏一族は栄華を誇るものの、平氏一強の世の中は多くの人の不満を招きます。

1180年、平氏打倒を唱えた以仁王の令旨が掲げられ、平氏の世の中にあっても高位の身分を保っていた源頼政(みなもとのよりまさ、1104年~1180年)が挙兵します。

当時、京都にいた大庭景親は他の武将と連携してこれを追討、京の治安を守っています。

以仁王の令旨が全国に波及することを危惧した平氏は、各地の源氏の動きを注視します。

そこでつかんだのは、伊豆国で流人生活を送っていた源頼朝(みなもとのよりとも、1147年~1199年)が、北条時政(ほうじょうときまさ、1138年~1215年)など在地の武将の協力を得て、挙兵を企てているとの情報。

また、その企ての中には大庭景親の兄大庭景義(おおばかげよし、不詳~1210年)も含まれていることを知ります。

大庭景親は相模国に戻り、善後策を在地の武将に相談。

しかし、相談相手の中には源頼朝に心を寄せる者がいて、大庭景親の動向をすぐに源頼朝に報告。

挙兵の準備をしていた源頼朝は、機先を制することを考え挙兵。最初に伊豆国の目代、山木兼隆(やまきかねたか、不詳~1180年)を襲撃して勝利。

その後、源頼朝の軍は現在の神奈川県湯河原町まで進出します。

この報を知った大庭景親は、急ぎ平氏に与する武将を集め石橋山(神奈川県小田原市)に布陣し、源頼朝の軍と対峙します。

この時の軍勢は、源頼朝方300騎、大庭景親3,000騎で、兵力には大きな隔たりがありました。

しかし、源頼朝方にはこの後も軍勢が加わるという情報を得た大庭景親は、夜襲を仕掛けて源頼朝の軍を撃破。

敗れた源頼朝は山中に逃げ込みます。

源頼朝は源氏の嫡流。命があれば再起の可能性も十分にあるため、大庭景親は山狩りで源頼朝の探索を行います。

この時、石橋山の戦いでは大庭景親とともに源頼朝と戦った梶原景時(かじわらかげとき、1140年~1200年)が源頼朝を発見。

しかし、梶原景時は源頼朝を捕えることなく、かえって逃げ道を教えます。

大庭景親は梶原景時の行動を怪しみながらも、執拗な追及をすることもできず、結果として源頼朝は戦場からの脱出に成功。

安房国に逃れた源頼朝は再起を図ります。

大庭景親も当時福原にいた平清盛(たいらのきよもり、1118年~1181年)に報告し、援軍の要請をするものの、源頼朝の動きは早く、平氏の援軍は編成さえままならぬという状況に陥っていました。

源頼朝は、安房国で再起。

軍を鎌倉に向けますが、行軍途中で多くの武将が源頼朝に加勢。鎌倉に入るころには、2万騎以上になっています。

大庭景親も1,000騎程度の軍勢は持っていたものの多勢に無勢。

石橋山の戦い時とは情勢が逆転し、身動きさえ取れない状況に陥り、最後は軍も解散します。

また、その後は源氏と平氏が富士川で対峙するも、平氏は戦わずして逃げ、源氏の圧勝に終わります。

状況が好転しないことを悟った大庭景親は降参しますが、その後、程なく処刑され生涯を閉じています。

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さいごに

大庭景親は、石橋山の戦いで勝利したものの、そのことが原因となり生涯を閉じています。

大庭景親の兄大庭景義は、源頼朝旗揚げ当初から源頼朝に従い、鎌倉幕府の中でも相応の役割を得ています。

また、石橋山の戦いで源頼朝を助けた梶原景時は、その後、源頼朝に重用されます。

一方、大庭景親は石橋山の戦いで勝利しただけでなく、源頼朝を執拗に捕えようとしたことで、降伏しても命を助けられることもなく最期を迎えています。

大庭景親は敗者になったこともあり、はっきりとした事績はあまり伝わってはいません。

ただ最後まで、平氏方であったのは事実のようです。

大庭景親は義理を通したためなのか、あるいは単に時勢を見る目がなかったのか、果たしてどちらであったのでしょうか。
 
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