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日本史

平手政秀が切腹をしたのはなぜ!織田信長の傅役が送った生涯とは

織田信秀・土田御前に抱かれる吉法師(後の織田信長)

この記事では、戦国時代の武将である平手政秀について、お伝えをしていきます。

平手政秀は織田家の家臣として、1492年に生まれ、1553年に亡くなっています。

ただし、亡くなった原因は病気ではなく切腹。

どうして平手政秀は切腹をしたのでしょうか。平手政秀がなぜ切腹したのかについては、いくつかの説があります。

そこで織田家、とりわけ織田信長と平手政秀の関わり合いと、平手政秀切腹の理由のいくつかを考えていきたいと思います。

織田信長と平手政秀の関わり合い

平手政秀は、織田信長の父である織田信秀に、家老として仕えていた武将です。

織田信長が生まれたのちは、織田信長の傅役(もりやく)になり、数々の成果を残しています。

まずは織田信長の履歴を年表形式でお伝えしていきます。

 
1534年織田信秀の嫡男として誕生(幼名は吉法師)
1546年元服(三郎信長となる)
1547年初陣
1548年織田信秀と美濃国の斎藤道三が和睦
1549年織田信長と斎藤道三の娘の濃姫が婚姻
1552年織田信秀が亡くなり織田信長が家督相続
1553年傅役の平手政秀切腹
1553年織田信長が政秀寺(せいしゅうじ)を建立
1560年桶狭間の戦い
平手政秀は知識・教養があり、織田信秀の重臣として、とりわけ外交面で力を発揮したと言われています。

その平手政秀が、織田信秀の嫡男である織田信長の傅役になったのは、織田信長が誕生して間もなくの頃。

ここから織田信長と平手政秀の関わり合いが生まれてきます。

平手政秀は織田信長の傅役としても、その力量を発揮しています。

たとえば、織田信長初陣の際は後見役として、初陣を無事に済ませています。

また、織田家の長年の宿敵であった隣国美濃の斎藤道三との和睦に尽力したのも、斎藤道三の娘である濃姫と織田信長の婚姻を取りまとめたのも、平手政秀の力量に負うところが大きかったとされています。

しかし、織田信長が織田家を家督相続した翌年、平手政秀は切腹をしています。

なぜ、織田信長が織田家の当主としてはばたく時期に、平手政秀は切腹をしたのでしょうか。

これについては諸説ありますが、この記事ではとりわけ有名な2つの説をご紹介します。

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なぜ平手政秀は切腹したの1

織田信長が若い頃居城にした清州城
織田信長は、少年の頃より奇行で知られていました。

父の織田信秀在世中は当主という立場でなかっただけに、それほど目立ちはしませんでしたが、当主となっても奇行は改まりませんでした。

もちろん、傅役の平手政秀も諫言を続けていたものの、織田信長の素行が改まることはありませんでした。

このことを悲観し、さらには諫言するための最後の方法として、平手政秀は切腹をしたと言われています。

織田信長は織田家の当主となりました。ただし、この当時の織田家の立場は危ういものでした。

まず、織田信秀の時代、尾張国の形式的な支配者は守護大名である斯波氏です。

実質的に支配をしていたのは守護代である織田家でしたが、一人の人物が支配をしていたわけではありません。

尾張国の上四郡と下四郡は、別々の織田氏がそれぞれ守護代として支配をしていました。

しかし、織田信秀はまだ登場をしてきません。

織田信秀は、尾張国下四郡の守護代であった織田家の家臣という存在にすぎませんでした。

当時は戦国時代の真っただ中という時代でしたが、織田信秀がのし上がっていくのには相当な困難が伴っていました。

これは織田信長か当主となっても、さしたる変わりはありません。

また、織田信長は織田家の家督を継いだとはいえ、すべてに祝福されていたわけではありません。

なにしろ織田信長の行動は異様でした。

一方、織田信長の弟に織田信勝がいました。

織田信長も織田信勝も、母は織田信秀の正室である土田御前(どたごぜん)。

さらに織田信勝は、織田信長と異なり品行方正でした。

織田信長が織田家を相続したものの、母の土田御前は何をするかわからない織田信長よりも、織田信勝をかわいがっていました。

また当主の器量が、国の存亡を決めてしまうような時代。

織田信長の奇行を危ぶんだ柴田勝家など織田家の重臣は、織田信長を廃し、織田信勝を擁立しようと画策をしていました。

織田信長は織田家を相続したものの、対外的には不安定な立場。また、織田家内部でも抗争が絶えなかった。

織田信長の傅役である平手政秀でさえも、織田家そして織田信長の将来に危機感を抱いていた。

ことが起こってからでは遅い。大きな不幸が来てしまう前に織田信長の素行を改めさせようとして選んだのが切腹という方法でした。

織田信長を諫言するために平手政秀は切腹をした。

なぜ平手政秀は切腹したのか。その理由で最も知られているのが諫言説です。

なぜ平手政秀は切腹したの2

平手政秀が切腹したのはなぜなのか。もう一つ言われているのが、織田信長と平手政秀の諍い(いさかい)です。

平手政秀の長男に平手五郎右衛門という人物がいました。

平手五郎右衛門は立派な馬を持っていましたが、それを見た織田信長はその馬を自分によこせと所望しています。

しかし、平手五郎右衛門も戦国武将の一人。

戦場で活躍するためには、この馬が必要と言って、織田信長の意向を拒絶します。

織田信長も後には名馬を数多く手元に置いたほどの馬好き。

このあたりの感情の行き違いが元になって、最終的に平手政秀が切腹をして事を収めたと伝えられています。

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平手政秀は切腹した理由がはっきりしないわけとは

平手政秀が切腹した理由として挙げられているのは、諫言説と諍い説が有力です。

ただし明確には分かりません。

なぜかと言えば平手政秀は有能とはいっても、戦国武将としてはさほど有名な人物ではありません。

また織田信長は有名な人物ですが、認知度が上がったのは1560年の桶狭間の戦い以降です。

平手政秀が切腹をしたのは1553年で、桶狭間の戦いのはるかに前のことです。

平手政秀は織田家の一家臣でそれほど有名な人物ではなかった。

織田信長も尾張国の一部で活躍する人物で、近隣以外には無名の人物だった。

こうしたことから、平手政秀や当時の織田信長の事績を示す文書はほとんど残されていません。

平手政秀が切腹した理由は、新たな発見でもない限り永遠の謎になるかもしれないですね。

さいごに 織田信長は平手政秀をどのように思っていたの

桶狭間の戦い古戦場
平手政秀が切腹をしても、織田信長の素行は改まりませんでした。

後世、織田信長の奇行は、織田家内部の敵対勢力を油断させるため。あるいは、尾張国を狙っている隣国大名を油断させるためともいわれています。

確かに桶狭間の戦いで今川義元を討ち果たすという実績をあげているので、あながち否定はできないかもしれませんが、果たしてどうでしょうか。

では、この記事の最後に織田信長は平手政秀をどのように思っていたのかを簡単に記したいと思います。

平手政秀が切腹した理由がはっきりとわからないのと同じように、織田信長は平手政秀をどのように思っていたののかも定かではありません。

しかし平手政秀が切腹した翌年、織田信長は平手政秀を弔うために政秀寺(せいしゅうじ)を建立しています。

後世の織田信長を見ると、織田信長は敵対した人物を冷酷無比に扱っています。

一方、信用できる人物に対しては、これが織田信長なのと思わせるほどの細やかな愛情を示しています。

平手政秀が切腹した当時と、後世の織田信長の性格が同じであるとは断言できませんが、政秀寺を建立したのは事実。

このことから織田信長は平手政秀を大切に思っていた。そうは考えられないでしょうか。