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大岡越前守忠相の読み方や役職などをご案内します

はじめに 大岡越前守忠相の読み方とは

大岡越前守忠相の読み方や役職などをご案内します。

まず、大岡越前守忠相の読み方は、「おおおかえちぜんのかみただすけ」になります。

ところで大岡越前守忠相を調べていくと、大岡越前守忠相は大岡越前、大岡越前守、あるいは大岡忠相などさまざまに表記をされています。

この記事では、大岡越前守忠相を大岡越前と表記をして、その生涯と役職などを簡単にお伝えしていきたいと思います。

大岡越前の生涯と役職(江戸町奉行になるまで)


 

 

 

 

 

 

 

 

 

大岡越前は、1677年に生まれます。

時代は江戸時代の中期。

大岡越前が生まれたときの江戸幕府の将軍は、第4代徳川家綱の治世の後半の時期にあたります。

まさに江戸幕府が安定期に入る、そんな時代でした。

父は徳川家の旗本を務めていた大岡忠高になります。

大岡越前が幕府の役職に就いたのは、第5代将軍徳川綱吉にお目見えした後のことで、1702年には将軍の親衛隊のような役割を持つ書院番に任じられています。

その後、いくつかの役職を経た後に1708年には目付に就任をしています。

目付とは主に旗本や御家人の監視をする役職のことで、目付には有能な人材が充てられるのが一般的でした。

大岡越前は幕府の中で順調に出世を果たしていきます。

そして、大岡越前自身にとって契機となったのが、1712年、第6代将軍徳川家宣の時代に任じられた山田奉行。

山田奉行は江戸幕府が設置した遠国奉行の一つで、山田の場所は伊勢国です。

そして山田奉行の管轄地は、徳川御三家の一つである紀州徳川家に隣接する土地になります。

そのため争いが起きたとき、その是非を判断する山田奉行は、紀州徳川家の意向を忖度して紀伊徳川家に有利になるような判断を下すことが多かったと言われています。

しかし大岡越前はそうした前例にとらわれることなく公正に判断。

その仕事ぶりをじっくりと見ていたのが、時の紀州藩主である徳川吉宗です。

1716年、第7代将軍徳川家継の時代に大岡越前は江戸の土木工事を司る職務である普請奉行に任じられます。

もっとも徳川家継が将軍であった期間は短く、同年には亡くなります。

そして、第8代将軍となったのが前紀州藩主であった徳川吉宗。

徳川吉宗の目に留まっていた大岡越前は、1717年に江戸南町奉行という役職に就きます。

また、大岡越前は1712年に能登守に叙任されていますが、江戸南町奉行という役職に就いて以降は越前守を名乗っています。

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大岡越前の生涯と役職(亡くなるまで)

当時の幕府の出世コースから見たら、大岡越前のたどった役職は順当なものであったようです。

そうした意味で大岡越前が江戸南町奉行に就くことについての違和感はありませんが、本来であれば江戸町奉行に就任するのは60歳前後と言われていました。

ところが、大岡越前が江戸町奉行に就任をしたのは40歳の頃。

出世のコースとしては順当でしたが、そのスピードは相当に速いものであったようです。

徳川吉宗と大岡越前には偶然という要素もあったのかもしれませんが、大岡越前には官僚として卓越した能力があったものと思われます。

江戸町奉行は、江戸に住む町人に対して、警察のような役割、あるいは裁判所のような役割を担っていました。

しかし、江戸町奉行の職務はそれだけできなく行政の役割も担っていたとされています。

本来、江戸町奉行の職務の範囲は広大で、そのため当時の江戸町奉行は北町奉行・南町奉行・中町奉行の3つに分かれていました。

しかし、徳川吉宗が行った享保の改革の影響で中町奉行所は廃止され、大岡越前はさらに激務の中に身を置くことになります。

その後、1736年に大岡越前は町奉行の任を解かれ、寺社奉行になります。

江戸幕府にあって、寺社奉行、勘定奉行、町奉行は三奉行とされていました。

この中で寺社奉行とは主に寺社を管轄する役所で、三奉行の中では最上位とされていました。

具体的な立場でいえば、町奉行や勘定奉行は旗本が就ける最上級の役職で、寺社奉行は大名が就く役職。

大岡越前は旗本でありながらも、寺社奉行に就くことができましたが、やはり旗本が寺社奉行に就くのは当時の身分社会では無理がありました。

大岡越前が寺社奉行について数年後の1738年、この不備に気づいた徳川吉宗により、ようやく1万石に加増。

大岡越前は大名になります。

なお、江戸時代を通じて町奉行から大名への出世を果たしたのは大岡越前のみとされています。

1751年6月、徳川吉宗が死去。

大岡越前も寺社奉行を辞し、同年12月に75歳の生涯を閉じています。

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さいごに


 

 

 

 

 

 

 

 

 

この記事では、まずは大岡越前守忠相の読み方。

そして、大岡越前守忠相の生涯と役職の変遷を簡単にご案内をしてきました。

ところで、大岡越前は遠山金四郎景元と並んで江戸時代の名奉行として知られています。

大岡越前の場合、名奉行を称賛する意味で「大岡裁き」という言葉が知られています。

では、大岡裁きは史実だったのでしょうか。

実際のところ大岡裁きの多くは、他の奉行の事績を置き換えた、あるいは後世の創作などとも言われており、大岡裁きというのはほとんど存在しなかったとも考えられています。

もっとも大岡越前は徳川吉宗の元、江戸の町火消を組織化し、小石川養生所の設置に尽力したという立派な事績を残しています。

大岡裁きの真偽はともかくとして、大岡越前は町奉行として江戸の町の振興に尽くしたというのは、どうやら事実のようです。


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