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徳川家康の性格を簡単にご紹介します
江戸幕府の礎を築いた徳川家康。徳川家康といえば「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」の川柳が有名ですが、果たして徳川家康はどのような人物だったのか。
この記事では、徳川家康の性格を簡単にご紹介していきます。
徳川家康の性格を作った背景とは
徳川家(当時は松平家)は三河国の領主で、平時ならば苦労することなく生活が送れるはずでした。しかし、徳川家康が生まれたのは戦国時代。
徳川氏の領地は東に今川、西に織田という強国に挟まれ、どちらかの庇護を受けなければ存在そのものが危うい立場でした。
徳川家康の父は今川につくことを決め、幼少の徳川家康を人質に送ります。しかし部下の裏切りで全く逆の織田家の人質になります。
その後、織田家と今川家の人質交換で徳川家康は今川家の人質になりますが、身分自体は変わらず肩身の狭い青春期を送っています。
また、今川家の人質であったとき徳川家康は結婚をしますが、相手は今川家の当主である義元の縁戚に連なる身分でしかも年上。
結婚生活においても窮屈な思いをしたようです。
桶狭間の戦いで今川義元は討死し、徳川家康は無事三河国に戻り、人質生活から解放されます。
しかし、人質になったのは6歳、人質から解放されたのが17歳。幼少期から青年期までの10年を人質として過ごしています。
このことは、徳川家康の性格形成に大きな影響を与えたものと思われます。
では、次に徳川家康の性格の特徴を、簡単・具体的に6つに分けてご紹介していきます。
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徳川家康の性格の特徴を6つご紹介
徳川家康の性格1 慎重で我慢強い
徳川家康で有名なのは「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」。もちろん、徳川家康自身が詠んだものではありませんが、徳川家康の性格を端的に言い表しています。
慎重で我慢強い性格は、10年にわたる人質生活で培われたものだと思われます。
人質生活を送っている間は、基本的には普通の生活を送っていたはず。しかし常に命の危険もありました。
徳川家康の慎重で我慢強い性格は必然のものだったと思われます。
徳川家康の性格2 律義で義理堅い
織田信長は、平気で人を裏切りました。豊臣秀吉は、主家から強引に天下を奪い取りました。
でも当時は当たり前のことでした。
一方、同時代に生きた武将でも徳川家康は、約束事を守る律義で義理堅い性格で知られていました。
徳川家康は最終的に天下を取り、豊臣家を滅亡に追い込みました。
しかし、天下分け目の関ヶ原の戦いは1600年。豊臣家が滅亡したのは1616年。
この間、16年間もあります。
織田信長や豊臣秀吉であれば、16年もの空白を作ることはあり得なかったはずです。
慎重で我慢強い性格の賜物かもしれませんが、それだけではない何かがあったようにも思われます。
徳川家康は、今川義元も織田信長も豊臣秀吉も裏切ってはいません。
徳川家康は豊臣家を滅亡させる意思はなかったとも伝えられていますが、それまでの事績、そして16年間の空白を考えると納得できるものを感じます。
徳川家康の性格3 戦では短気
短気は、戦における徳川家康の性格です。徳川家康の生涯の戦の中で最大の敗北を喫したのが、武田信玄との三方が原の戦いです。
この戦いはだれが見ても徳川家康に不利でしたが、徳川家康はこの戦いを避けることも可能な状況でした。
しかし、武田軍に挑発された徳川家康は短気に行動を起こし、確固とした戦術もないまま戦いを挑み敗れています。
また、関ヶ原の戦いでは事前に裏切りを約束していた小早川秀秋がなかなかその約束を実行しないとみると、その小早川軍に鉄砲を撃ちかけて挑発をしています。
徳川家康は野戦の名人と言われています。
豊臣秀吉が好んだ水攻め、兵糧攻めなどは時間はかかりますが、瞬時の判断というのはそれほど必要とされません。
一方、野戦は瞬時の判断が勝敗を決することが往々にしてあります。
戦については短気だけれども頭脳明晰な徳川家康だったからこそ、三方が原の戦いでの失敗があったものの、最終的に天下が取れたのだと思われます。
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徳川家康の性格4 部下の育成に熱心
徳川家康の家臣は、三河武士といわれ精強な軍団でした。それをさらに強くしたのが徳川家康です。たとえば、織田信長のような猜疑心の強い大将の元では三河武士は育たなかったはず。
織田信長は身分や出身にかかわらず家臣を雇い入れましたが、基本的にはお金というエサで家臣を増やしています。
一方の徳川家康はそれまでいた家臣のレベルを向上させることに意を注いでいます。
その徳川家康が他国から多くの家臣を雇い入れた時期があります。
それは武田氏が滅亡したときのことで、精強といわれた武田家の旧臣を積極的に集め、徳川家の陣立てなどを強かった武田家のものに改めています。
三河武士は強いことで知られていました。
それをさらに強くするだけでなく、領地の拡大に伴って有能な武士を集め、ますます自らの軍団を強くしていった。
部下の育成に熱心だったからこそ、徳川軍は日本一強い軍団に成長することができたものと思われます。
徳川家康の性格5 ケチ
ケチというのは性格とは少し異なるかもしれません。ただ、徳川家康を語るときケチは外すことができないものと思われます。このケチについてはいくつかのレベルがありますが、徳川家康の場合、すべてにおいてケチだったと言われています。
まず、自身のレベルについてですが、徳川家康は何より贅沢を嫌ったと言われています。
天下を取ってからも食事は質素なまま、ふんどしは黄色いものを使い汚れが目立たないようにし洗う回数を減らしていたなど、ケチについての逸話は数多く残されています。
また、徳川家康は家臣に大国を与えないことでも知られていました。
大国を与えると裏切りの可能性もあると警戒心が働いたのかもしれませんが、豊臣秀吉が大盤振る舞いといえるほどの領地を家臣に与えたのに対して、徳川家康が功臣に与えた領地はせいぜい10万石。
徳川家康には有能な家臣が多かったということもありますが、石高の少なさについては家臣も愚痴をこぼしていたようです。
徳川家康の性格6 健康オタク
これも性格ではないかもしれません。ただ、徳川家康の健康に対する興味は人並み外れたもので、徳川家康は自ら漢方を調合しそれを服用していたと言われています。
まとめ 徳川家康の性格が天下取りの原動力となった
徳川家康は生まれながらの武士です。しかし、天下をとれるほどの家に生まれたわけではなく、幼少期から青年期までの10年間を人質として過ごしています。
この人質生活が後の徳川家康を作り上げます。
それでは最後に、徳川家康の性格の特徴を簡単に6つにまとめてみたいと思います。
1 徳川家康は慎重で我慢強い性格。そのため、将来を見誤ることなく成長ができました。
2 徳川家康は律義で義理堅い性格。そのため、猜疑心の強い織田信長にさえ信用されていました。
3 徳川家康は戦においては短気。そのため、瞬時の判断が可能となり野戦の名人という評価を得ることができました。
4 徳川家康は部下の育成に熱心。そのため、領地の拡大に合わせて有能な部下が増えていきました。
5 徳川家康はケチ。そのため、戦の軍資金に困ることなく数々の戦に臨むことができました。
6 徳川家康は健康オタク。そのため、長生きすることができました。
徳川家康は天下を取り、徳川幕府の創始者となりました。
それは決して偶然のことではなく、むしろ必然。 そして、その要因は徳川家康自身の性格によるところが多かったようです。
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