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斎藤道三と織田信長
この記事では、斎藤道三と織田信長の関係を4つの場面に分けて簡単にお伝えします。斎藤道三は美濃国を治めた戦国大名です。
主である土岐頼芸を強引に追い出して美濃国を奪ったことから「美濃の蝮(まむし)」という異名、あるいは「戦国三大梟雄」の一人に数えられています。
蝮は獲物を捕まえたら離さない、そして猛烈な毒を持っている。
戦国時代はさまざまなタイプの武将が活躍していますが、斎藤道三はとりわけ異彩を放った人物といえそうです。
一方の織田信長はあまりにも有名です。
約100年続いた戦国時代をほぼ終息に導いた織田信長は、自らを魔王と称するほど強烈な個性を持っています。
斎藤道三と織田信長は生きた時代が少しだけ異なっています。斎藤道三が晩年を迎えたころ、織田信長が世の中にでてきた。
時代的に斎藤道三と織田信長にはずれがありますが、この2人には深い関係があったようです。
それでは、斎藤道三と織田信長の関係を4つの場面に分けて、簡単にお伝えします。
生没年 | |
斎藤道三 | 1494年~1556年 |
織田信長 | 1534年~1582年 |
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斎藤道三と織田信長の関係1 政略結婚
美濃国の斎藤道三と、尾張国の織田信秀(織田信長の父)は長年対立関係にあり、戦うこともしばしばでした。また斎藤道三は、越前国の朝倉氏とも抗争状態にありました。
斎藤道三は美濃国の国主であるのに対して、織田信秀は尾張国守護の下の守護代、さらに守護代の下で働く奉行の一人にすぎませんでした。
しかし織田信秀は尾張国内部で勢力を伸ばし、美濃国の斎藤氏だけでなく、三河国の松平氏、さらには駿河国の今川氏とも抗争状態にありました。
斎藤道三にしても織田信秀にしても四方は敵ばかり。
そこで斎藤道三と織田信秀は和睦し、その結果として斎藤道三の娘の濃姫(帰蝶)が、織田信秀の嫡男である織田信長に嫁ぐことになります。
織田信長と濃姫が婚姻したのは、1548年あるいは1549年と言われています。
もっともこの婚姻は織田信長と濃姫というよりも、美濃国と尾張国を安定に導くための政略結婚。
濃姫が織田信長に嫁いだことにより、斎藤道三と織田信長の関係が生まますが、花嫁の父親と婿が直接に対面することはありませんでした。
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斎藤道三と織田信長の関係2 正徳寺での会見
1553年、斎藤道三と織田信長は初の対面をします。場所は、美濃国と尾張国の境にある正徳寺です。このとき織田信長はどのような状態に置かれていたのでしょうか。
織田信長の父である織田信秀は、前年の1552年に亡くなっています。織田信秀は有能な武将であったとはいえ、尾張国を治めるほどにはなっていませんでした。
そして織田信秀の嫡男で、斎藤道三の義理の息子である織田信長は「うつけ者」と言われていて、その噂は美濃国にも及んでいました。
当時の織田信長は、周囲に理解する人物がほとんどおらず、織田家では織田信長ではなく弟の織田信勝を推す声が次第に強まっていました。
美濃の蝮と言われていた斎藤道三には、織田信長を廃して尾張国を乗っ取ってしまおう。
そんな考えもあったようです。
正徳寺での会見では二人が対面を果たす前に、斎藤道三が物陰に隠れ、正徳寺に向かう織田信長の行列を眺めます。
このときの織田信長は評判通り、馬に乗りながらも恰好は異様で、瓢箪に入れた酒を飲みながらだらしない格好でいます。
しかし斎藤道三は、織田信長の家臣団が長い槍を持ち、当時はまだ珍しかった鉄砲を持っているのを見逃しませんでした。
そして会見の場での織田信長は、正装して礼儀正しく義父の斎藤道三に接します。
正徳寺での会見後、斎藤道三が「近い将来、美濃国は織田信長のものになるだろう」と語ったとされる逸話はあまりにも有名です。
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斎藤道三と織田信長の関係3 斎藤道三の遺言
1554年、正徳寺での会見の翌年。斎藤道三は息子の斎藤義龍に家督相続し、自らは隠居します。
ただ、斎藤道三と斎藤義龍は不仲で知られていました。通常であれば、斎藤道三が家督を斎藤義龍に譲ることは考えにくいところです。
しかし斎藤家の家臣の多くが、斎藤道三ではなく斎藤義龍を支持した。そのため斎藤道三は家督を斎藤義龍に譲るしかなくなった。
家督相続の経緯については諸説ありますが、斎藤道三は家臣に信望がなかったともいわれています。
そして1556年、斎藤道三と斎藤義龍は長良川の戦いで直接対決を果たします。
斎藤義龍側18,000人、斎藤道三側3,000人。
斎藤道三が隠居したためかどうかは分かりませんが、戦力的に圧倒的な差があったのは事実です。
そして、このとき斎藤道三は遺言を残します。
その内容は、美濃国を織田信長に譲り渡すというものです。
斎藤道三は、息子の斎藤義龍ではなく、義理の息子の織田信長を評価していたことがわかります。
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斎藤道三と織田信長の関係4 織田信長の派兵
斎藤道三と斎藤義龍が長良川の戦いで対峙したとき、織田信長は斎藤道三の元へ援軍を派遣しています。これは正徳寺での会見に基づくもので、織田信長が危急のときには斎藤道三が援軍を派遣、逆に斎藤道三が危急の時には織田信長が援軍を派遣するという約束に基づいたものです。
援軍を派遣した織田信長が、実際に何を考えていたのかは分かりませんが、少なくとも約束を果たしたのは事実です。
ただ織田信長が斎藤道三の元に援軍を派遣したとき、斎藤道三は既に敗死していて間に合わなかったと言われています。
まとめ
この記事では、斎藤道三と織田信長の関係を4つの場面に分けて簡単にご紹介してきました。
斎藤道三と織田信長が直接に対面したのは、正徳寺での会見のただ一回だけだったのかもしれません。
義理の親子とはいっても、現代とは異なり、実際の親子でも戦うような戦国時代です。
むしろ、ある程度の権力を握っていた二人が対面をすることの方が不思議なのかもしれません。
でも、斎藤家と織田家が政略結婚とはいえ和睦をした。そして、少なくとも斎藤道三在世中は両家が深刻な対立に陥ることはなかった。
やはり斎藤道三と織田信長には何か相通じるものがあったのではないでしょうか。
断言はできないものの、そんな気がします。
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