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目次
はじめに
この記事では西郷菊次郎とはということで、西郷菊次郎の波乱万丈の前半生をご紹介していきます。西郷菊次郎が生まれたのは1860年(万延元年)。
亡くなったのは1928年(昭和3年、享年67)。
西郷菊次郎の父は西郷隆盛、母は愛加那になります。
西郷隆盛は、明治維新3傑の一人にあげられていますが、その生涯は波乱万丈。
その影響を受けたためでしょうか。西郷隆盛の息子の西郷菊次郎も、前半生においては波乱万丈の生活を送っていたようです。
それでは、西郷菊次郎の波乱の前半生をご紹介していきます。
西郷菊次郎とは1 誕生から西郷隆盛との別離まで
前述のとおり、西郷菊次郎は西郷隆盛と愛加那の息子としてこの世に生を受けています。生まれたのは、奄美大島。
西郷隆盛は生涯で2度の遠島処分を受けています。最初の遠島になった場所が奄美大島。つまり西郷隆盛が遠島となっている時に、西郷菊次郎は生まれています。
一方、母の愛加那は奄美大島で生まれ育った、いわゆる「島女」です。
その後、西郷隆盛の遠島処分が解かれ、西郷隆盛は薩摩に戻ることになります。
普通に考えれば、このときに愛加那も薩摩に戻るはずです。しかしながら薩摩藩の藩法で、愛加那の立場は西郷隆盛が奄美大島にいる間だけ認められた「島妻」。
西郷隆盛は薩摩に戻ることはできても、愛加那が奄美大島からでることは許されていませんでした。
結果的に、愛加那と息子の西郷菊次郎は島に残らざるを得ず、ここで西郷隆盛と西郷菊次郎は最初の別れを経験することになります。
西郷菊次郎が誕生したのは1860年、西郷隆盛が薩摩に戻ったのは1861年。僅か1歳で、西郷隆盛と息子の西郷菊次郎は別れています。
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西郷菊次郎とは2 西郷家に引き取られアメリカ留学
西郷隆盛は、生涯で3度の結婚をしています。2番目の妻が愛加那。薩摩に戻って3番目の妻となったのが糸子(西郷糸子)です。
西郷隆盛と糸子が結婚をしたのは1865年。その後、2人の間には寅太郎・牛次郎・酉三の3人の息子が生まれています。
糸子はとてもできた女性と言われていて、西郷菊次郎9歳の頃、奄美大島にいた西郷菊次郎と菊子を呼び寄せ、自らの3人の子供だけでなくこの2人の子も養育をします。
※ 菊子は西郷隆盛と愛加那の間に生まれた娘で、西郷隆盛が奄美大島を離れた後に誕生しています。
西郷菊次郎は薩摩の西郷家に引き取られることで、母の愛加那と別れることになります。また、父の西郷隆盛も明治維新で薩摩に腰を落ち着けている暇などなかったはず。
西郷菊次郎は実の母と別れ、実の父ともほとんど会えなかっものと思われます。
その後、西郷菊次郎は12歳(1872年・明治5年頃)でアメリカに留学をします。1874年(明治7年)頃には帰国をしますが、その後、待ち受けていたのは西南戦争。
西南戦争で西郷菊次郎は、また人生の転換期を迎えることになります。
西郷菊次郎とは3 西南戦争に参加するも大けが
1867年に起こった西南戦争の中心人物は西郷隆盛。息子の西郷菊次郎も西南戦争に参加をします。
しかし、延岡・和田越えの戦闘で銃弾を受けて、右ひざから下を切断する大けがを負います。このままでは命も危ない所でしたが、私学校の幹部であった桐野利秋の判断で敵側に投降する算段をつけます。
このとき西郷菊次郎と一緒にいたのは西郷家に古くから仕える永田熊吉。永田熊吉は負傷をして動けない西郷菊次郎を背負い、無事に投降をします。
西郷隆盛は反政府軍という立場でしたが、政府軍には西郷隆盛の弟で、西郷菊次郎にとっては叔父にあたる西郷従道がいました。西郷従道は、西郷菊次郎の命があることを大層喜んだと伝えられています。
西南戦争で西郷隆盛は命を落としましたが、息子の西郷菊次郎は大けがこそしたものの命を取り留め、その後は様々な役職を渡り歩くことになります。
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西郷菊次郎とは4 西郷菊次郎の立場
西郷菊次郎は、波乱万丈の前半生を送っています。その最大の理由は、西郷隆盛の息子であったからだというのは疑う余地がないところです。でも、それだけではなく西郷菊次郎の波乱万丈の前半生は出自によるところも大きいようです。
西郷菊次郎の父である西郷隆盛は、身分は低いとはいえ薩摩藩士です。母の愛加那は、奄美大島の島女です。
薩摩藩はとりわけ身分関係に厳しいと言われていましたが、奄美大島に住む人は身分が低いとされていました。
したがって、配流の身であっても薩摩藩士である西郷隆盛と、奄美大島に住む愛加那は、正式な結婚ができなかったと言われています。
ところで、西郷隆盛には合わせて5人の子がいて、西郷菊次郎の妹である菊子を除けば全員が男子です。
その中で、西郷菊次郎の生年は1860年。次の男子である西郷寅太郎の生年は1866年です。
しかし、西郷家の長男は、西郷隆盛と正妻である糸子との間に生まれた西郷寅太郎。
西郷菊次郎は、西郷隆盛の息子としては最も早い時期に生まれたものの、愛加那は島妻で正式な妻ではないということで、西郷菊次郎は庶子という複雑な立場とされています。
前述のとおり、西郷隆盛の薩摩藩における身分は高いものではありませんでした。したがって、西郷隆盛に正室や側室がいたわけではありません。
当時の薩摩藩の藩法が愛加那を正式な妻と認めなかったため、その息子である西郷菊次郎の立場も不安定になったもののようです。
この点に関しては、後に勝海舟も「西郷菊次郎は正式な妻との間に生まれた子ではないが、長子である。」というようなことを語っています。
西郷菊次郎は、不安定な立場に置かれていました。そのため、生まれたときから父の西郷隆盛が亡くなるまでは、波乱にとんだ前半生を送っていました。
しかし西南戦争後は、前述の西郷従道や大山巌(西郷隆盛・従道兄弟の従兄弟・後の大日本帝国元帥)、あるいは勝海舟などにかわいがられ、後半生は順調に政府の役職などを務めています。
さいごに 西南戦争後の西郷菊次郎
それでは、最後に西南戦争後の西郷菊次郎の事績を簡単にご紹介します。
1885年(明治17) 外務省に入省
1886年(明治18) 在米公使館勤務
1887年(明治20) 米国留学(3年後に帰国、外務省勤務)
1895年(明治28) 陸軍省に移り台湾勤務(台北県支庁長など)
1904年(明治37) 京都市長(約6年半)
波乱万丈の前半生に対して、西郷菊次郎の後半生は比較的穏やかな日であったように見受けられます。
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