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この記事では「徳川斉昭とは」ということで、読み方や評価について簡単にご紹介をさせていただきます。
まずは、徳川斉昭の略歴と読み方からご案内をさせていただきます。
徳川斉昭の略歴と読み方
徳川斉昭の略歴をご紹介すると次のとおりです。1800年 | 水戸藩第7代藩主である徳川治紀(とくがわはるとし)の三男として生まれる。 |
1816年 | 父の徳川治紀が亡くなり、兄の徳川斉脩(とくがわなりのぶ)が水戸藩第8代藩主となる。 |
1829年 | 兄の徳川斉脩が亡くなったため水戸藩第9代藩主となる。また、名を徳川紀教(とくがわとしのり)から徳川斉昭に改める。 |
1844年 | 藩内で仏教弾圧をしたことを糾弾され、幕府より隠居と謹慎処分を受け藩主の座を追われる。 |
1846年 | 謹慎処分が解かれる。 |
1853年 | 老中首座阿部正弘(あべまさひろ)の依頼を受け幕政に関与する。 |
1857年 | 阿部正弘の死とともに井伊直弼(いいなおすけ)との対立が鮮明になる。 |
1858年 | 江戸城へ無断登城し井伊直弼を詰問した罪を問われ謹慎を命じられる。 |
1860年 | 水戸にて病死。 |
死後 | 諡号(しごう)を「烈公」とされる。 |
上記が徳川斉昭の略歴で、徳川斉昭という名前は藩主になってからの名前であることがわかります。
また、水戸斉昭には烈公という諡号も贈られています。
では、読み方ですが
徳川斉昭は「とくがわなりあき」
烈公は「れっこう」
になります。
※ 諡号(しごう)は、一文字で「諡」と表記されることもあります。「諡」と表記する場合の読み方は、一般的には「おくりな」になります。
諡号は、身分の高かった人がその死後に亡くなった人の性格や事績に基づいてつけられるものです。水戸藩では時代劇でも有名な水戸黄門(徳川光圀)にも諡号があります。水戸黄門の諡号は義公(読み方は「ぎこう」)です。
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徳川斉昭の評価
それでは、徳川斉昭の置かれた立場などを考えたうえで、評価のいくつかをお伝えしていきたいと思います。
徳川斉昭の出自からみた評価
徳川斉昭は、尾張徳川家、紀伊徳川家とともに御三家として知られた水戸徳川家の藩主です。江戸幕府の初期に定められた御三家は、時間が相当に経過していることもあって徳川宗家とは血のつながりは少しばかり弱くはなっていますが、それでも他の藩よりも重きをおかれている藩とされていました。
水戸斉昭の出自は当時にあっては相当に高く、水戸藩主というだけで評価がされていました。
徳川斉昭の思想からみた評価
徳川斉昭は幼少時から水戸藩独自の考え方である水戸学を学んでいました。水戸学とは簡単に言えば尊王思想であり、外国船が日本近海に出没するようになってからは攘夷思想も加わったと考えられています。
徳川斉昭は水戸学に深く精通するとともに、水戸学はその後の尊王攘夷思想に大きく影響を与えたともいわれています。
言い換えれば水戸斉昭は、当時の最先端の思想である尊王攘夷運動の推進者とも目され評価もされていました。
徳川斉昭の能力からみた評価
徳川斉昭は幼少時から聡明さをたたえられていました。また、水戸藩主になってからは盛んに人材登用を図り、藩政改革に努めます。なお、幕末の水戸藩には戸田蓬軒や藤田東湖など有能な人物が輩出していますが、こうした人物の多くは徳川斉昭により抜擢をされた人々です。
徳川斉昭は人材登用の能力や政務を担当する能力が、当時の大名など多くの人々に評価をされていました。
徳川斉昭の性格からみた評価
徳川斉昭の諡号は烈公。諡号からもわかるとおり、徳川斉昭は激しい性格という評価が定着をしていました。身分も高く忠告できる人がいない、思想が凝り固まっていて柔軟性がない、能力が高いことを自覚している、そして激しい性格である。
そのため味方もいるけれど敵も多い。味方からは称賛される徳川斉昭も、敵からは心底嫌われてしまう。
徳川斉昭の持つ性格そのものが、徳川斉昭の評価を貶める原因ともなっているようです。
そして、徳川斉昭の対極にいて最大の敵となったのが井伊直弼です。井伊直弼の南紀派と徳川斉昭などの一橋派は、13代将軍徳川家定の後継者争いで戦います。
結果的に井伊直弼の南紀派が勝利をおさめますが、それだけではなく井伊直弼は徳川斉昭に対して謹慎の処分を下します。徳川斉昭は井伊直弼により政治的生命を絶たれます。
井伊直弼から見て、激しい性格を持ち敵対してくる徳川斉昭は許せない存在であったようです。
徳川斉昭の性癖からみた評価
徳川斉昭は一言でいえば女好き。こうした評価が一般的です。徳川斉昭には正室と側室を合わせて10人の女性がいて、子供は合計で37人(22男15女)を設けています。
もっともこの数字は、当時の大名としては多い方かもしれませんが、ありえないものではありません。
しかし、徳川斉昭はそれ以外に艶聞・醜聞の類もあり、とりわけ大奥に対してはパワハラ・セクハラまがいの言動も多かったといわれています。
そのため、大奥は徳川斉昭のことを蛇蝎のごとく嫌い、結果的に大奥の徳川斉昭嫌いが徳川斉昭の子である一橋慶喜(後の徳川慶喜)の将軍就任を妨げたともいわれています。
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さいごに
この記事では、徳川斉昭の読み方と評価についてご案内をしてきました。
徳川斉昭の評価については
★ 身分の高さが一目置かれていた
★ 思想が当時の最先端を走っていた
★ 能力が高かった
このあたりは、高評価につながっています。
一方、
★ 性格が激しく井伊直弼など敵が多かった
★ 性癖により大奥に嫌われていた
このあたりは、低評価の原因ともなっています。
徳川斉昭は評価が高い人物であったからこそ、今でも著名であるというのは一つの事実であることは疑う余地はありません。
しかし、その性格や性癖により敵も多く、結果的に大きな目的であった将軍の後継者選びに負けてしまい、さらには政治的生命を失ったままその生涯を終えてしまったのも事実です。
仮に徳川斉昭の性格が穏やかで、かつ、女性に対してもっといたわりの気持ちがあれば、その後の日本も徳川斉昭の評価も大きく変わっていたのかもしれないですね。
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