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浅井長政と織田信長の関係1 接点
この記事では、浅井長政(あざいながまさ、1545年~1573年)と、織田信長(おだのぶなが、1534年~1582年)の関係についてお伝えしていきます。どうやら、浅井長政と織田信長は、戦国一の美女と謳われたお市の方を不幸にしてしまったようです。
まずは浅井長政の置かれた状況と、織田信長との接点が生まれるまでを、簡単に記していきます。
浅井長政が生まれたのは1545年です。浅井長政は戦国大名浅井氏の第3代当主になる立場でした。
浅井家は北近江の豪族でした。
北近江の守護は京極家でしたが、浅井長政の祖父浅井亮政(あざいすけまさ、1491年~1542年)が京極家を追い出して、戦国大名の浅井家が誕生します。
もっとも浅井家の地位は盤石ではなく、北の朝倉家、南の六角家の顔色を常に窺っているような弱い立場でした。
浅井家は戦国大名と言いながらも、近隣大名とバランスをとっていかなければいけない存在で、結果的にはそのことが浅井家滅亡にもつながっていきます。
浅井亮政の後を継いだのが、子の浅井久政(あざいひさまさ、1526年~1573年)です。
しかし浅井久政の代になると、南近江の守護大名六角氏の侵攻をうけ、領地の一部を失うだけでなく、六角氏と主従関係のような立場に陥ってしまいます。
隣国を強国に挟まれた浅井家は家臣の意見も一通りではなく、浅井久政の弱腰の政策への異論も数多く出てきています。
その結果、家臣の一部が画策して浅井久政を隠居させるとともに、浅井久政の嫡男である浅井長政を当主の座に据えます。
浅井長政が当主になったのは1560年の頃で、まだ15歳の少年にすぎませんでした。
若い浅井長政が当主になったのは、凡庸な浅井久政に比して武勇に優れていたからとも考えられています。
父の浅井久政は、南の六角氏の下風に立つだけでなく、北の朝倉家とも親密な関係を築こうとしていました。
それに対して、浅井長政は六角家や朝倉家とは距離をとり、独立の気概を見せます。
ただし、それができるほど浅井家の勢力は強くありません。
そんなときに現れたのが織田信長です。
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浅井長政と織田信長の関係2 蜜月
浅井長政と織田信長の関係で、最初に接近を図ってきたのは織田信長です。尾張国を支配する織田信長の隣国は美濃国の斎藤家です。
織田信長は斎藤道三の娘の濃姫を正室に迎え、織田家と斎藤家は縁戚関係で結ばれていました。
しかし、1556年に斎藤道三が息子の斎藤義龍に討たれると状況は一変。織田家と斎藤家は敵対関係になります。
浅井長政と織田信長の関係がいつ始まったのかは定かではありませんが、浅井家と織田家で美濃の斎藤家を挟撃しようと考えた織田信長は浅井家への接近を図ります。
結果として、浅井長政は織田信長の妹で戦国一の美女と謳われたお市の方を正室に迎え、1567年に浅井家と織田家は縁戚関係で結ばれます。
ただし、浅井長政と織田信長の同盟もすんなりと決まったわけではありません。
浅井長政の父である浅井久政は既に当主の座は失っていましたが、一定の発言力と取り巻く家臣がいました。
浅井久政は、織田家との同盟に強く反対します。
その理由は、浅井久政自身は越前国の朝倉義景と誼(よしみ)を通じていたこと。そして、朝倉家と織田家が不仲であったことです。
浅井家と織田家は縁戚関係で結ばれた頃に、美濃国の当主であった斎藤龍興(斎藤義龍の子)は追放され、美濃国は織田信長のものになります。
その美濃国と接しているのが越前国。必然的に織田家と朝倉家は対立します。
浅井久政から見れば、朝倉家は由緒ある家柄で、織田家はよくわからない新興の大名と映ったのかもしれません。
織田信長は朝倉義景を攻めない。
こんな条件があって、浅井家と織田家は縁戚関係で結ばれたとも言われています。
浅井長政と織田信長の関係3 破綻
浅井長政と同盟を結んだ織田信長には思惑がありました。
斎藤氏を滅ぼした織田信長が次に目指したのが上洛で、上洛の通り道にあったのが北近江です。
南近江の六角氏は織田信長と敵対関係にあったので、上洛をするためには何よりも北近江が重要でした。
実際1568年になると、第13代足利義輝の弟である足利義昭が頼ってきます。
足利義昭の兄である足利義輝は暗殺され、第14代将軍には足利義輝の従兄弟にすぎない足利義栄が就いていました。
そのため、足利義昭は正当性を主張して第15代将軍の座を狙っていましたが、足利義昭には肝心の武力がありません。
足利義昭が頼みとしていたのは朝倉義景です。
足利義昭は朝倉義景の元に身を寄せ上洛を催促しますが、朝倉義景は動こうとしません。
業を煮やした足利義昭が次に頼ったのが織田信長です。
織田信長はすぐに上洛を始めます。
浅井長政の助けを得ながら南近江の六角氏を撃破し、1568年に織田信長は上洛を果たし、さらには足利義昭を第15代将軍の座に就けています。
では織田信長が次にしたことは何でしょうか。
織田信長は将軍足利義昭の名前を利用して、朝倉義景に上洛を命じます。
しかし、織田信長の下風に立つことを潔しとしなかった朝倉義景は、2度ににわたってこれを拒否。
1570年、ついに織田信長は朝倉義景討伐の軍を起こします。
ただ、このことは織田家と浅井家の同盟の条件を破るものでした。
元より織田家との同盟に反対だった浅井久政が中心となり、織田家に対して反旗を翻したと言われています。
織田信長と浅井長政の蜜月関係は約2年で終わりを迎えます。
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浅井長政と織田信長の関係4 最期
浅井長政と織田信長が直接にぶつかったのは1570年の姉川の戦いです。姉川の戦いは、浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍の戦いで、結果的に織田・徳川連合軍が勝利。
ただし、織田・徳川連合軍が完全に勝利したわけでもなく、織田家と浅井家・朝倉家の戦いはまだまだ続くことになります。
ここで、織田信長の反対側の中心人物として登場するのが足利義昭です。
足利義昭は織田信長によって将軍になりましたが、実質的権限はなく傀儡将軍のようになっていました。
この状況に強い不満を覚えた足利義昭は、周辺大名などに声をかけ織田信長包囲網を築いていきます。
1572年、北近江で浅井・朝倉連合軍が織田軍と対峙しているときに動いたのが、甲斐国の武田信玄です。
武田信玄は西上を開始し、三方ヶ原の戦いの戦いにおいて徳川家康に壊滅的な打撃を与えます。
武田信玄は朝倉義景に織田軍への侵攻を要請しますが、何を思ったか朝倉義景は越前国に帰国をしてしまいます。
このときが織田信長を倒す最大のチャンスでしたが、朝倉義景は敵に背を向けてしまいます。
また最大のキーマンであった武田信玄も陣中で病没したことで、織田信長包囲網はもろくも崩れ去ってしまいます。
1573年になると織田信長は北近江の浅井家に侵攻を開始します。
朝倉義景は助勢のため北近江に向かいますが、織田軍により分断。織田信長は浅井長政に降伏をすすめるものの、浅井長政はこれを拒否。
居城の小谷城において、浅井久政・浅井長政親子は自害し、戦国大名としての浅井家は滅亡をします。
さいごに その後のお市の方
浅井長政は自害しましたが、お市の方はどうなったのでしょうか。
織田家と浅井家の関係が良好であったのは2~3年とごく短い期間です。
しかし、浅井長政とお市の方の関係は良好であったようで、2人の間には3人の女児が生まれています。
小谷城は落城し浅井長政も自害をしましたが、お市の方と3人の子は助けられ、その後は織田信長の元で生活を続けます。
1582年、織田信長が本能寺の変で倒された後、お市の方は織田家の重臣の柴田勝家に嫁ぎ、3人の子も一緒に柴田勝家の居城である北ノ庄城に向かいます。
ただ北ノ庄城での生活もわずかな期間で終わりを迎えます。
1583年になると、柴田勝家と羽柴秀吉の対立が決定的なものとなり、賤ヶ岳の戦いで両者がぶつかります。
敗れた柴田勝家は北ノ庄城に戻り自害。このとき、お市の方も一緒に自害し波乱の生涯を閉じています。
なお、浅井長政とお市の方の間に生まれた3人の子は助けられます。
長女の茶々は、後に豊臣秀吉の側室になり淀殿になります。
次女の初は、若狭小浜藩主京極高次の正室になります。
三女の江は、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の正室となり、第3代将軍徳川家光の生母になります。
浅井長政とお市の方の生涯は波乱万丈。
そして、三人の子の生涯もそれぞれに波乱万丈であったようです。
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