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精忠組は薩摩藩の組織!始まりから終わりまでご案内します

噴煙を上げる桜島
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はじめに

この記事では、幕末の薩摩藩にあった精忠組(せいちゅうぐみ)について、始まりから終わりまでをお伝えしていきます。

精忠組の始まり

精忠組の始まりについては、はっきりとはしていません。

ただ、精忠組の始まりについて言われているのは1851年の頃。薩摩藩主が島津斉興から島津斉彬に代わった後のことだと考えられています。

島津斉興の後継は嫡男である島津斉彬のはずでした。しかし、島津斉興は島津斉彬のことを嫌い、寵愛していた側室お由羅の方の子である島津久光を後継の座に就けようと画策していました。

幕府の仲介もあって最終的には島津斉興は隠居、島津斉彬が藩主になりますが、約2年間にわたって続いた騒動(お由羅騒動)はその後も大きな禍根を残すことになります。

新たな藩主になった島津斉彬は英邁な人物として知られ、特に人材発掘にも力をいれていました。

薩摩藩は他藩よりも上下関係が厳しいと言われていましたが、島津斉彬が藩主になることで風通しがよくなり、それまで一顧だにされなかった下級武士も意見を述べることができるようになりました。

そこで頭角を現したのが後の西郷隆盛ですが、西郷隆盛だけでなく多くの下級武士が積極的に意見を述べられるようになり、精忠組が生まれています。

精忠組が自然発生的にできたものなのか、あるいは島津斉彬主導としてできたのかははっきりとわかりません。

ただ、藩主が認めなければこうした組織が作れるはずもありません。島津斉彬は精忠組の存在を認めていたことは確かで、そこから人材を見出そうとしていた可能性もあります。

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精忠組の目的とメンバー

鹿児島の桜島

精忠組は、近思録崩れの主要人物であった秩父季保(ちちぶすえやす)が愛読した「近思録」を輪読する会として誕生をしました。

もちろん、近思録を読むだけでなく、近思録を参考にしたうえで時勢を語ろうというのが精忠組の目的です。

また、島津斉彬が藩主になるまでは紆余曲折がありました。それが、前述のお由羅騒動ですが、近思録崩れもお由羅騒動も、何れもが薩摩藩のお家騒動です。

お家騒動に関する研究も精忠組の目的であったのかもしれません。

なお、このときの発足メンバーとして後世まで名を残す人物としては、西郷隆盛・大久保利通・海江田信義・税所篤・吉井友実・伊地知正治などがいます。

近思録崩れ(きんしろくくずれ)とは

1808年から1809年にかけて起こった薩摩藩のお家騒動。

具体的には薩摩藩の前藩主である島津重豪(しまづしげひで、1745年~1833年)と、その子で当代の藩主である島津斉宣(しまづなりのぶ)の実権を巡る争いが近思録崩れです。

島津斉宣は近思録を愛読する近思録派を重用し、父の島津重豪に対抗します。しかし、島津斉宣の藩政のあり方に激怒した島津重豪は近思録派約50名を死罪・遠島に処してしまいます。

さらに島津重豪は子の島津斉宣を廃し、孫の島津斉興(しまづなりおき)を新しい藩主として実権を握り続けます。近思録崩れは、先代藩主が当代藩主に勝ったお家騒動です。

秩父季保(ちちぶすえやす)とは

秩父季保(1773年~1808年)は、近思録派のメンバーで島津斉宣により家老に抜擢されます。しかし近思録崩れにより罷免されたうえ切腹を命じられています。

近思録とは

近思録は中国で1176年に刊行された朱子学の入門書のような書物です。朱子学は儒学から生まれた学問で人格などの道徳を形成する学問です。江戸時代は江戸幕府から公認の学問として重視されていました。

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精忠組の終わり

島津斉彬の時代にできた精忠組は、当初は思想的にもまとまった組織であったと考えられます。

しかし、島津斉彬の時代に主流であった公武合体は時代と共に色あせていき、倒幕という概念も生まれてきます。

島津斉彬が亡くなった後、薩摩藩の実権を握ったのは島津斉彬の異母弟である島津久光。島津久光も兄の島津斉彬と同じように精忠組のメンバーを登用しようと考えます。

精忠組の中で、島津斉彬が見出したのは西郷隆盛。一方、島津久光が見出したのが大久保利通であると言われています。

さて、島津久光が重視していたのは兄である島津斉彬の考えを受け継ぎ公武合体でした。しかし、精忠組には幕府の改革を促す考えも生まれつつありました。

こうした考えに同調する人は、薩摩藩の武力を利用して公武合体よりさらに強い幕府改革を目論むようになります。

さて、1862年、島津久光は公武合体を実行に移すために、藩兵1000人を率いて京都・江戸に向かおうと考えます。島津久光の考えはあくまでも公武合体。

しかし、この時に京都にいた精忠組のメンバーの中には、幕府に物申すための出兵と考える人もいました。

そこで、こうした人々が集まったのが京都の寺田屋。寺田屋では薩摩藩士だけではなく長州藩士なども加わり謀議を重ね、関白や京都所司代の殺害を計画します。

京都に入った島津久光はこれを知り激怒。しかし、最初は説得を試み、精忠組の大久保利通・海江田信義・奈良原喜左衛門などを派遣。この派遣が成果をあげないと、今度は武術に優れた9名を選抜して寺田屋に派遣。

そして、とうとう武力衝突が起こります。

寺田屋に籠った人の中で、精忠組のメンバーであった有馬新七・柴山愛次郎など6名が死亡。また、それ以外でも後日に切腹を命じられた人、遠島や謹慎を命じられた人は多数にのぼります。

寺田屋事件は薩摩藩の内紛であるとともに、精忠組が敵味方になり戦った事件。寺田屋事件を契機として、精忠組はその形を無くしていきます。

さいごに

城山から桜島を眺める
この記事では、精忠組の始まりから終わりまでを簡単にご紹介してきました。

実は、「精忠組」という名前は当時はなくて、後世に名付けられていたものとも言われていますが、果たして実際のところはどうなのでしょうか。

少なくとも組織であれば、何かしらの名前が存在したのではないか。そんな気がしています。

ところで、精忠組の始まりは1851年の頃、終わりは1862年の頃と考えられます。活動期間はたった10年。

でも、精忠組の中には西郷隆盛や大久保利通など、明治維新を成し遂げるために活躍した人物が多数いるのも事実です。

むしろわからないことが多い精忠組ですが、これからの研究でもっといろいろなことがわかるようになると良いですね。

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