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清少納言と紫式部の関係などをわかりやすくお伝えします

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清少納言と紫式部の関係をわかりやすく

平安時代に活躍した、随筆「枕草子」作者の清少納言と、物語「源氏物語」の作者の紫式部は、今でも著名な人物です。

そして二人とも、藤原氏の全盛期に宮中で活躍しています。

清少納言と紫式部は概ね同時代を生きた女性ですが、清少納言と紫式部はどのような関係だったのでしょうか。

この記事では、清少納言と紫式部の関係をわかりやすくお伝えします。

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清少納言と紫式部の生涯

最初に、清少納言と紫式部の生涯をごく簡単に年表形式でお伝えします。

清少納言の生涯

966年頃誕生、父は清原元輔
981年橘則光と結婚
982年橘則長を出産
991年橘則光と離婚
993年中宮藤原定子に女房として仕える
1001年藤原定子死去に伴い宮中を退出
不詳藤原棟世と再婚・小馬命婦を出産
1001年頃枕草子を書き上げる
1025年頃死去

紫式部の生涯

973年頃藤原為時の子として生まれる
998年頃藤原宣孝と結婚
999年娘・藤原賢子(大弐三位)誕生
1001年藤原宣孝死去
1006年又は1007年中宮藤原彰子の女房として仕える
1012年以降中宮藤原彰子の元を離れる
1031年頃死去

清少納言と紫式部の生涯のまとめ

清少納言も紫式部も後世に名を残していますが、生没年は不明で諸説あります。

ただ、清少納言の方が紫式部より少し年上であったようです。

そして、清少納言と紫式部の生涯で大きなポイントになるのが、それぞれが仕えた主人です。

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清少納言と紫式部と中宮

清少納言が仕えたのは、一条天皇の中宮藤原定子(ふじわらのていし又はふじわらのさだこ、977年~1001年)。

一方、紫式部が仕えたのは、同じく一条天皇の中宮藤原彰子(ふじわらのしょうし又はふじわらのあきこ、988年~1074年)です。

清少納言も紫式部もそれぞれの中宮の女房として仕えています。

そこで、最初に女房の立場、次に清少納言と藤原定子、紫式部と藤原彰子の関係について簡単にお伝えします。

女房とは

女房とは、簡単に言えば中宮の私的使用人です。

当時の婚姻形態は、夫が妻を訪ねる妻問婚(つまどいこん)でした。

また妻が一人とは限らず、天皇の場合は後宮に中宮だけでなく、女御(にょご)や更衣(こうい)という複数の女性を置き、天皇がその都度行く先を決めていました。

そうなると女性自身の魅力もさることながら、女性を取り巻く環境も大切になります。

当時は娯楽が少ない時代で、しかも女性で知識や特技を持つ人も多くありませんでした。

そこで中宮の実家は、能力ある女性を一人でも多く雇い、中宮の元に送り込む必要があります。

中宮に仕えた女房も一人ではありません。

藤原定子の女房としては、清少納言が知られています。

一方、藤原彰子の女房としては紫式部以外にも和泉式部や赤染衛門などが知られています。

女房を多く雇うためには、実家の権力だけでなく財力が大きく影響していたようです。

清少納言と藤原定子の関係

藤原定子の父は、当時、絶大な権力を握っていた藤原道隆です。

そして藤原道隆が目をつけたのが、知識が豊富で独身となっていた清少納言です。

藤原定子も博学の清少納言を重用したようですが、995年に藤原道隆が亡くなると風向きが変わります。

藤原道隆が亡くなった後に起こったのが、藤原氏を誰が率いるのかという後継問題。

結果として、藤原道隆の弟藤原道長がその座に収まっています。

そして、藤原道長が行ったのは自らの長女藤原彰子を一条天皇の中宮にすることでした。

藤原彰子が一条天皇の中宮になったのは1000年。

この時点で一条天皇の中宮は二人になりますが、これはおかしなこと。

そのため、藤原定子は中宮ではなく皇后宮と号されることになります。

一条天皇と藤原定子の間には、一男二女が誕生します。

次女が誕生したのは1001年ですが、藤原定子はその直後に23歳の生涯を閉じています。

藤原定子の死により、清少納言も宮中を退出します。

紫式部と藤原彰子の関係

お伝えしたように藤原道隆に代わり、弟藤原道長が権力を握ったことにより藤原彰子が中宮になります。

紫式部が藤原彰子の女房となったのは1006年又は1007年の頃と考えられています。

紫式部は漢詩の素養があることで知られていました。

さらに1001年に夫の藤原宣孝が亡くなった後から源氏物語を書き始め、それが藤原道長の知ることになり、藤原彰子に仕えるようになったと言われています。

なお、紫式部が女房を辞したのは1012年頃とされていますが、明確な時期や理由はわかっていません。

清少納言と紫式部の関係

これまでお伝えしたように、清少納言も紫式部もそれぞれの中宮に女房として仕えていますが時期が異なっています。

少なくとも宮中で、清少納言と紫式部の関係はなかったと思われます。

では、それぞれは相手のことをどのように思っていたのでしょうか。

清少納言の場合

清少納言が女房を辞してからの行動ははっきりとはしていません。

晩年は没落したと伝えられていますが定かではありませんし、没年もはっきりとしていません。

言い換えると、清少納言が紫式部に対して何かの発信をした可能性は低いと考えられますし、実際に記録に残っているものもありません。

紫式部の場合

源氏物語で有名な紫式部には、もう一つ有名な書物があります。

それは、紫式部が女房の時に記した紫式部日記で、その中に清少納言について書かれた部分があります。

それを意訳すると

「清少納言は漢文の素養が不足しているのに知識をひけらかしている。また、個性豊かなことを自慢しているようだけれど、将来はただ変な人ということで終わってしまいそう。そんな上っ面だけの人の将来はどうなってしまうのでしょうか。」

と述べています。

清少納言と紫式部は、少なくとも宮中における接点はありません。

また、宮中を去ってからの清少納言は表立った活動をしていないように見受けられます。

そうした状況にも関わらず、紫式部は清少納言のことを厳しく批判をしていたようです。

紫式部が清少納言を批判した理由

この記事では、清少納言と紫式部の生涯、清少納言と紫式部と中宮の関係、清少納言と紫式部の関係を簡単にお伝えしました。

ここでは、紫式部が清少納言を批判した理由について、少しふれたいと思います。

紫式部日記では、紫式部が清少納言を痛烈に批判していますが、その理由は定かではありません。

しかし、考えられることはいくつかあります。

清少納言と紫式部の素養

清少納言の実家の清原家は歌人の家系で知られていました。

一方、紫式部の実家の藤原家は漢詩で知られていました。

紫式部は清少納言の漢文の知識を批判していますが、紫式部から見たら清少納言の知識は浅薄に映り、それが許せなかった可能性があります。

夫藤原宣孝への批判

藤原宣孝が質素な服で行くべき神社に、派手な服装で参拝に行ったことがあり、それを清少納言が枕草子で批判しています。

そのことを遺恨に思った紫式部が、逆に清少納言を批判した可能性があります。

藤原定子と藤原彰子の比較

藤原定子と藤原彰子を比較すると、宮中では藤原定子の方が人気が高かったと考えられています。

紫式部日記には、藤原彰子は上品で奥ゆかしいけれど、一方では遠慮が過ぎて活気がない。
それが人気の差に表れているようなことが書かれています。

そこで清少納言を批判することで、清少納言の主人の藤原定子を見下そうとしていた可能性があります。

まとめ

紫式部と清少納言は、年齢面や宮中の活動期間を考えると、関係性がほとんどない可能性があります。

少なくとも、お互いを深く知る関係にはなかったようです。

また、清少納言が紫式部に言及する部分は見当たらないのに対して、紫式部は清少納言を痛烈に批判しています。

紫式部が清少納言を批判した理由は明確ではありませんが、批判した事実は残っています。

そんなことから、現在でも清少納言に好意は持てるけど、紫式部に好意が持てないという人もいるようです。

紫式部の清少納言に対する記述が、むしろ紫式部の評価を少し下げてしまっているようにも見受けられます。

 
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