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土田御前とは!織田信長の母はどんな生涯を送ったの

織田信秀・土田御前と織田信長の像
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土田御前とは

この記事では土田御前とはということで、織田信長の母の生涯を簡単にご紹介していきます。

もっとも、土田御前についてわかっていることはあまりありません。

たとえば、生まれた年がはっきりとしていませんし、本当の名前もわかってはいません。

また土田御前という名前の読み方も、「どたごぜん」と「つちだごぜん」の2通りがあるようです。

土田御前のことでわかっているのは、織田信長の父である織田信秀の継室(2番目の正室)であること。

織田信長の実母であること。

その程度です。

土田御前については、特に前半生が謎に包まれているものの、ある事件で名前が知られるようになっています。

それでは、まずは土田御前の名前を後世に残した事件について、簡単にご紹介していきたいと思います。

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織田信秀の後継者争い

織田信長が居城とした清州城
土田御前が、織田信秀の継室となった時期は定かではありません。

しかし、土田御前は織田信秀との間に6人の子をもうけていて、最初の子が織田信長、次の子が織田信勝です。

織田信長の生年は1534年、弟の織田信勝の生年は明らかではありませんが、年齢の差はそれほどなかったようです。

二人の父である織田信秀は、知略にも武略にも優れた武将と言われていて、織田信秀が健在な頃は家中に波風が立つことは少なかったと言われています。

ただ残念なことに、織田信秀は40歳を過ぎたあたりで亡くなってしまいます。

織田信秀は有能な武将でしたが、隣国には斎藤家・今川家など有力な戦国大名がいて、常に緊張状態にありました。

織田信秀が亡くなる数年前に織田家と斎藤家が和睦し、斎藤道三の娘の濃姫が織田信長に嫁いできたので、斎藤家との緊張状態は幾分緩和されました。

しかし、その頃から今川家がどんどん織田信秀の所領に入り込むようになってきており、織田家の状況は決して安泰とは言えませんでした。

織田信秀は若くして亡くなります。

残された男子の中で、後継者の候補には織田信長や織田信勝がいるものの、若年であるばかりでなく、織田信秀自身が後継者を明確に定めていませんでした。

また、織田信秀か亡くなった時の織田家は、周辺大名、特に今川家とは緊張状態にありました。

このことだけを考えても、織田信秀の後継者争いの火種は十分にあったと考えられます。

ところで織田信秀の葬儀で、ある事件が起こります。

織田信秀の葬儀に際し、織田信長は織田信秀の位牌に対し抹香を投げつけます。

対して、弟の織田信勝は正装で臨み、挙措も作法にのっとったものでした。

織田信長は幼いころから奇矯な行動で知られ「うつけ者」と言われていましたが、うつけ者という評価はこの行動で決定づけられたとも考えられます。

また織田信長には、さらなる逆風が吹きます。

織田信秀が亡くなったのは1552年です。

そして翌年の1553年には織田信長の傅役で、織田信長の数少ない理解者と言われた平手政秀が自害。

さらに1556年には、織田信長の義理の父である美濃国の斎藤道三が、息子の斎藤義龍に討たれ非業の最後を遂げてしまいます。

織田信長は、数少ない理解者と後ろ盾を失ってしまう状況にありました。

そもそも土田御前は、何をしでかすかわからない織田信長を嫌い、常識的な織田信勝を愛していました。

実際、織田信長の居城は那古野城、織田信勝は織田信秀の居城であった末森城を継いでいましたが、夫の織田信秀が亡くなっても土田御前は末森城に住み続け、織田信長の元に行くことはありませんでした。

また、織田家の重臣である林秀貞や柴田勝家なども織田信勝の側につき、いよいよ織田信長と織田信勝の対立は避けられないものとなっていきます。

織田信長と織田信勝がぶつかったのは1556年。斎藤道三が亡くなってすぐのことです。

結果は、織田信長の勝利。

織田信勝は居城の末森城に逃げ込み、死を覚悟しなければならない状況に置かれます。

このとき、兄弟の間に立ったのが、実母である土田御前です。

土田御前は織田信長を嫌っていたものの、織田信長と織田信勝の実母であり、戦場に立ったわけでもありません。

土田御前は織田信長に対し、織田信勝助命の嘆願をします。

織田信長は織田信勝を赦すだけでなく、織田信勝の味方をした林秀貞や柴田勝家なども赦しています。

土田御前により命を永らえた織田信勝ですが、兄の織田信長に対する反骨心は相当に強かったようで、再び挙兵を企てます。

このときは、母の土田御前も思いとどまるよう説得したと伝えられていますが、織田信勝が考えを変えることはありませんでした。

しかし織田信勝の企ては、柴田勝家が織田信長に告げたことにより露見します。

その頃の織田信長は清州城にいました。

清州城で病に倒れた織田信長を、織田信勝が見舞いに訪れます。

織田信長の病気は仮病。見舞いに行った織田信勝は、そこで暗殺をされ最期を迎えます。

もちろん、この事件で土田御前がとがめられることはありませんでした。
 
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その後の土田御前

織田信長が居城とした清州城
土田御前が歴史上、その存在を示すのは織田信長と織田信勝の相続争いの時です。

では、その後の土田御前はどうなったのでしょうか。

織田信勝の死後、土田御前は織田信長の元に身を寄せます。織田信長も実母である土田御前を粗略にはしなかったようです。

1582年織田信長は本能寺の変で亡くなりますが、その後は織田信長の次男である織田信雄の元で暮らします。

ただ織田信雄は暗愚として知られた人物で、一時は100万石を領有するものの、豊臣秀吉の怒りにふれ改易になってしまいます。

織田信雄改易後の土田御前は、土田御前の実子で織田信長・織田信勝の弟である織田信包(おだのぶかね)の元に身を寄せます。

そして1594年に生涯を閉じています。

土田御前は前半生の事績は定かではありません。

しかし実子の織田信長の活躍により、後世まで名前を残しています。

土田御前の最期は穏やかなものであったと思われますが、戦国時代の武将に嫁いだ女性。

その生涯は波乱万丈であったようです。

 
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