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日本史

織田信長の弟たちをご紹介!茶人で有名なあの人物もいた

織田信長の居城安土城の大手道

織田信長の兄弟をご紹介

日本の歴史の中でも、織田信長はとりわけ有名な人物ではないでしょうか。

一方、織田信長以外の織田姓を持つ人物の知名度は決して高くありません。

織田信長の父は織田信秀。

織田信秀は正室・側室の間に数多くの子供を設けていたので、織田信長にはたくさんの兄や弟がいたはずです。

この記事では、織田信長から見て兄や弟たち。

特に織田信長の弟たちを中心に、その生涯を簡単にご紹介をしていきます。

織田信長の兄弟にそれほど知られた人物はいません。ただ、一人だけ茶人として後世に名を残す有名な人物がいたようです。

 
生年没年
織田信長1534年1582年
 
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織田信長の兄

織田信長は織田家を相続しましたが、実は織田信秀の長男ではありません。織田信秀の長男は織田信広です。

織田信広

生年没年
織田信広不詳1574年
織田信広は織田信秀の長男で、織田信長は次男です。

織田信広の生年は、はっきりとしていないものの、このことは確かなようです。

ただし、織田信広の生母は織田信秀の側室。

織田信長の生母は正室の土田御前。

そのため、織田信広に家督を相続する権利はなかったと考えられています。

織田信広に与えられた役割は、1560年の桶狭間の戦いまでは対今川が中心でしたが、今川氏に大敗を喫し、一時的とはいえ今川氏に生け捕りにされてしまう失態を演じています。

また、織田信長と美濃の斎藤義龍(斎藤道三の子)の関係が悪化したときは、斎藤義龍と結んで織田信長を倒す計画を立てるものの未遂に終わります。

この時、織田信長は織田信広を赦しています。

命を助けられた織田信広は忠誠を誓い、織田信長も織田信広にさまざまな役割を与えていきます。

ただ、織田信長が上洛をして後に築かれた織田包囲網で、織田信長は四方に敵を抱えてしまいます。

織田信広の最期は、伊勢長島一向一揆攻めです。この戦いで織田信広は討ち死にをしています。

なお、織田信広に男子の子はいなかったと伝えられています。

織田信長の弟たち1

織田信長の居城安土城天主址
それでは織田信長の弟たちについて簡単にご紹介をしていきます。もっとも、弟たちについては不明の点も多いようです。

織田信勝(おだのぶかつ)

生年没年
織田信勝不詳1558年
織田信勝は織田信秀の三男で、織田信長のすぐ下の弟になります。

織田信勝については生年だけでなく、名前もはっきりとはしていません。現在は織田信勝が優勢ですが、織田信行という説もあります。

織田信勝の生母は土田御前で織田信長と同じです。正室である土田御前から誕生したことが、織田信勝の生涯を大きく狂わせます。

織田信秀が亡くなったのは1552年ですが、直後に起こったのが織田家の後継者争いです。

そして争ったのが、正室から生まれた織田信長と織田信勝の兄弟です。

最初に両者がぶつかったとき織田信長の勝利に終わり、織田信勝は赦されています。

しかし、織田信勝は再び織田信長に反旗を翻し、結果的に織田信長に謀殺され生涯を閉じています。

なお、織田信勝の子は赦され、織田から津田に姓を変え津田信澄として織田信長に仕えます。

織田信長の元で相応の活躍をするものの、本能寺の変で織田信長が倒れたときに謀反を疑われ、織田信長の三男である織田信孝に討たれてしまいます。

織田信包(おだのぶかね)

生年没年
織田信包1543年又は1548年1614年
織田信包は織田信秀の四男で、織田信長の元で様々な戦いに臨んでいます。

織田家の中での織田信包の位置づけははっきりとはしていません。

ただ1581年の京都御馬揃えでは、織田一族も多くが参加をして、その序列が参考になるといわれています。

織田一門で先頭になったのは織田信長の嫡男である織田信忠、次に次男の織田信雄、そして三番目が織田信包で、4番目が三男の織田信孝です。

織田信包が織田一門の中で重きをなしていたことが推測できます。

織田信包の生母は分かりませんが、もしかしたら土田御前でないのかという説もあるようです。

豊臣秀吉の元では大名となり、一時は改易されますが、その後は豊臣秀吉の御伽衆に加わります。

1600年の関ケ原の戦いでは西軍に所属するものの、徳川家康より所領を安堵されています。

その後大坂城にあって豊臣秀頼の補佐をしていますが、大坂冬の陣直前に急死をしています。

なお、織田信包の所領であった丹波国柏原藩は、子の織田信則が相続しますが、さらにその子の織田信勝が亡くなったとき、相続する男子がいませんでした。

そのため織田信包を祖とする、大名としての織田家は亡くなっています。

織田信治(おだのぶはる)

生年没年
織田信治1544年1570年
織田信治は織田信秀の五男で、織田信長の元で様々な戦いに臨んでいますが、浅井氏・朝倉氏と戦った宇佐山城の戦いで戦死をしています。

なお、織田信治の子はその後に柘植姓を名乗り、柘植正俊として江戸幕府の旗本になっています。

織田信時(おだのぶとき)

生年没年
織田信時不詳1556年
織田信時は織田信秀の六男とされていますが、分からないことが多い人物です。

分かっているのは、父織田信秀の弟である織田信康の養子になったこと。最期は、切腹して生涯を閉じたことなどです。

また、織田信時は織田信秀の六男ではなく、織田信広と織田信長の間に入る次男だったという説もあります。

なお、織田信時の子に女子はいたものの、男子はいなかったようです。

織田信興(おだ のぶおき)

生年没年
織田信興不詳1570年
織田信興は織田信秀の七男とされています。

織田信長に従い各地で戦いに臨んでいますが、浅井・朝倉軍に攻め立てられ自害をしています。

男子が一人いたともされていますが、定かではありません。

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織田信長の弟たち2

織田秀孝(おだひでたか)

生年没年
織田秀孝不詳1555年
織田秀孝は織田信秀の八男とされていますが、織田信包より年長の五男という説もあります。

織田秀孝は15歳~16歳の頃、間違えて射殺されたといわれています。なお、子の記録は残っていません。

織田秀成(おだひでなり)

生年没年
織田秀成不詳1574年
織田秀成は織田信秀の九男とされています。

織田信長に従い戦に臨んでいますが、長島一向一揆で討死をしています。

年齢は不明であるものの、若いうちに亡くなったと考えられています。

織田信照(おだのぶてる)

生年没年
織田信照1546年1610年
織田信照は織田信秀の十男とされています。

織田信照は織田信秀の側室が産んだ子で、後に母方の姓である中根氏を名乗っています。

織田信長が亡くなって以降は、織田信長の次男の織田信雄に仕えますが、その後の事績ははっきりとしていません。

一説に後に徳川家康の重臣である本田忠勝に仕え、本田忠勝が亡くなったときに殉死したという話もあります。

その場合の没年は1610年ですが、こちらについてもはっきりと証明されているわけではありません。

織田長益(おだながます)

生年没年
織田長益1547年1622年
織田長益は織田信秀の11男とされています。

織田長益は織田信長ではなく、織田信長の嫡男である織田信忠に従っています。

本能寺の変の時、織田信忠は本能寺近くの二条城にいました。織田長益は織田信忠に切腹をすすめ、実際に自刃をしています。

ところが、織田長益は二条城を脱出し岐阜まで逃げ延びています。

その後は織田信長の次男の織田信雄に仕えますが、織田信雄改易後は豊臣秀吉の御伽衆になります。

関ケ原の戦いでは東軍につきますが、大坂城にいる姪の淀殿の補佐をしています。

その関係は大坂冬の陣まで続くものの、大坂夏の陣直前に大坂城を退去し隠居をしています。

織田長益は隠居するとき3万石を有していました。

隠居時に自らの隠居料として1万石、四男と五男に1万石ずつを分けています。

そして、四男と五男の家は明治時代を迎えるまで大名として家系を保っています。

ところで、織田長益は織田有楽(おだうらく)という名前で知られています。

織田長益は武将としてよりも茶人として有名で、その号が有楽です。

東京都にある有楽町という地名は織田有楽に由来するもの。

同じく数寄屋橋という地名は織田有楽の屋敷があったことに由来するといわれています。

織田信長の弟の中ではもっとも知名度があるのが織田長益ですが、武将ではなく茶人として名前を残しているのが特徴的です。

織田長利(おだながとし)

生年没年
織田長利不詳1582年
織田長利は織田信秀の12男とされています。

織田長利は津田姓を名乗り織田信忠に仕えています。織田信忠が二条城で自害をした時、織田長利は討死をしています。

なお、織田長利には男子はいたものの僧籍に入っています。

まとめ

織田信長の居城安土城址から見た風景
織田信長から見て兄や弟たち、特に織田信長の弟たちを中心に、その生涯を簡単にご紹介をしてきました。

織田信長の事績と比べると、その兄弟たちの事績は不鮮明な点が多いのが特徴です。

特に12人の男子のうち、生年がはっきりしているのはたった4人というのは不思議な感じがします。

また、先に生まれた子供であっても、生母の身分が低いようなときは後に生まれたことにするということも往々にしてありました。

そのため、兄弟の順番についても複数の説があります。

この記事では一般的に言われている説に従って、順番にご紹介をしてきましたが、果たしてどうだったのでしょうか。

 
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