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日本史

明智光秀の性格とは!逸話を交えながら5つにまとめてご紹介します

亀岡市の明智光秀像遠景

明智光秀の性格を逸話を交えてご紹介

この記事では、明智光秀の性格を逸話を交えながら5つにまとめてお伝えします。

明智光秀は、本能寺の変で主君の織田信長を倒した人物として知られています。

しかし、明智光秀は生年も出自も不明で、前半生もあいまいな部分が多い謎の人物です。

明智光秀の動向が具体的にわかってくるのは、織田信長の家臣となって以降ですが、謀反人として生涯を閉じたため、伝わっていることが事実でないことも多いようです。

もっとも、真偽は別としても明智光秀には多くの逸話が残されているのは確かなことですし、そこから明智光秀の性格を垣間見ていくことも可能なように思われます。

そこで明智光秀に残された様々な逸話から、明智光秀の性格を5つにまとめてご紹介をしていきたいと思います。

明智光秀の性格1 野心家だった

明智光秀の前半生ははっきりとしないものの、越前国の戦国大名朝倉義景に仕えたことは分かっています。

その後、足利義昭が朝倉義景の元に頼ってきてからは、朝倉家の家臣でありながら足利家の家臣にもなっています。

さらに朝倉家を離れ、足利義昭と織田信長の家臣になり、最後は足利義昭を見限り織田家の家臣になっています。

そして、明智光秀は織田家の中で立身を重ね、本能寺の変当時は織田家を代表する武将の一人になっています。

このことだけでも、明智光秀が上昇志向の強い野心家であったことが読み取れます。

ところで江戸時代初期の軍学者に山鹿素行という人物がいて、その著書に明智光秀のことが次のようなに記されています。

明智光秀は若い頃、大黒天の像を拾います。

それを見た家臣が「大黒天を拾った人は千人を束ねる人物になれる」と語ります。

しかし、そのことを聞いた明智光秀は「たった千人か」とその場で大黒天を捨ててしまいます。

山鹿素行は明智光秀よりずっと後の人物で、さらにこの逸話の出所も明らかではありません。

ただ、明智光秀が野心家であるという一端を示す逸話と言えそうです。

また、この時代に日本に滞在した宣教師ルイス・フロイスは著書「日本史」で明智光秀のことをいくつも語っています。

その中で明智光秀は

・ 織田信長の寵愛を受ける方法を身につけていた。

・ 織田信長への贈与を怠らなかった。

などと評しています。

これだけを見たら明智光秀は「とても嫌な奴」ということになりますが、

同書には

・ ほとんどすべての者から嫌われていた。

とも書かれています。

ルイス・フロイスは織田信長が台頭した時代に来日し、織田信長に拝謁をしています。

その時、織田信長は日本の仏教の荒廃を嘆くとともに、布教の許可もだしています。

ルイス・フロイスが日本史を書き始めたのは本能寺の変の翌年の1583年からで、同書では織田信長を称賛しているのに対して、明智光秀に対しては批判的な意見が多くなっています。

ルイス・フロイス自身が織田信長寄りであったことは明らかで、その分、明智光秀は損をしてしまっていますが、明智光秀は野心家だったということについて感じ取ることができます。

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明智光秀の性格2 勉強家だった

明智光秀は、武将としても文化人としても有能な人物でした。

しかし、出自さえはっきりとしない人物が、教育面で恵まれていたとは思えません。

明智光秀はとても勉強家で、元々の能力も高かったため、様々な面で才能を発揮したのではないでしょうか。

まず武将としてですが、明智光秀が朝倉義景の家臣となれたのには鉄砲の存在があります。

明智光秀が鉄砲の腕前が見事だったので、それが仕官の糸口となったというものです。

ただし、このことははるか後の元禄時代に書かれたもので、信ぴょう性が低いというのが定説です。

また、ルイス・フロイスは明智光秀に対しては批判的な意見が多いものの、築城技術にはすぐれていたと評価をしています。

築城術は難しいものですし、当時、築城術を心得ていた武将はそう多くはありません。

どこで学んだのかは定かではありませんが、明智光秀は築城術を知識として持っていたようです。

実際に現在の福知山市の街並みは、明智光秀が築城し城下町を作ったことに由来するといわれています。

一方、文化人としては連歌や茶の湯を好んでいたと伝えられています。

連歌は当時の第一人者里村紹巴に学び、後には連歌の会を主宰するようになっています。

また茶の湯の会も主宰しています。

このようなことから、明智光秀は勉強家で向上心の強い人物であったことがうかがえます。

明智光秀の性格3 合理主義者だった

亀岡市の田園風景
織田信長は積極的な人材登用を行っています。

その人材登用の基準を考えると次のようなものがあげられます。

・ 有能であること

・ 自分の命令に従うこと

・ 合理的にものごとが考えられること

織田家の中でも3つの条件に最もあっていたのは、羽柴秀吉と明智光秀ではないでしょうか。

特に注目をすべきは情緒に流されることなく、合理的にものごとを判断する力です。

それが表れているのが、1571年の比叡山焼き討ちです。

比叡山は仏教の修行の場でありながら、数万の僧兵を抱え政治にも大きな影響を及ぼしていました。

また比叡山の意向に沿わないと仏罰に見舞われるということで、それまでの武将は対抗することすらできませんでした。

しかし織田信長は大きな矛盾を感じ、明智光秀に焼き討ちを命じ、明智光秀は比叡山焼き討ちの中心人物となっています。

明智光秀は朝廷などを大切にする保守主義者ともいわれています。

そのため比叡山焼き討ちに消極的であったが、織田信長の命令があったから仕方なく焼き討ちをしたと考えられていたこともありました。

しかし、現在ではむしろ積極的にかかわっていたと考えられています。

また、ルイス・フロイスは刑を科するのに残酷であったと記していますが、これは罪刑法定主義によるものと考えることもできます。

そして、明智光秀が合理主義者であったことを示す事例としては、稲葉一鉄との諍いがあります。

稲葉一鉄は、明智光秀と同じく織田家の家臣です。

明智光秀は、稲葉一鉄の家臣である斎藤利三を高禄で召し抱えるとして引き抜きをしています。

さらに斎藤利光を使って、稲葉家から別の家臣を引き抜こうと画策をしています。

まったく関係のない他家から引き抜きをすることは問題ないものの、同じ織田家の家臣間で引き抜きをするのはやはり不自然です。

そんなところからも、他の家に忖度しない明智光秀の合理性が見受けられます。

 
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明智光秀の性格4 生真面目で繊細だった

明智光秀は繊細な人物だったという説があります。そして、その根拠を本能寺の変に求める場合が多いようです。

本能寺の変の前、明智光秀は愛宕神社で3回もくじを引き謀反の是非を占ったとされています。

このことから明智光秀は神経質で繊細なイメージが定着をしています。

もっとも当時はおみくじは3回引くものという風習があったと伝えられているので、これをもって繊細と決めつけるのは早計かもしれません。

また本能寺の直前に明智光秀は粽(ちまき)を食べています。

ところが粽をササごと食べてしまったという逸話も残されています。

さすがの明智光秀も織田信長を倒すことについては相当に悩んだという逸話ですが、こちらについては出所さえはっきりとはしていないようです。

明智光秀が本能寺の変を起こした理由については怨恨説があります。

織田信長からのたくさんのつらい仕打ちを受けた結果、生真面目で繊細だった明智光秀はノイローゼになってしまい、本能寺の変が起こったというものです。

昔は、明智光秀は生真面目で繊細な性格だったので、心を病み本能寺の変に至ったと言われていましたが、現在、怨恨説は下火になっています。

明智光秀は武将というよりは、文化人のイメージが強いのかもしれません。

武将からは繊細というイメージは出てきませんが、文化人と繊細は結び付きやすい。

そんな明智光秀の全体的なイメージから繊細であったに結び付いているのかもしれません。

 
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明智光秀の性格5 優しかった

明智光秀は妻に対しても、家臣に対しても、領民に対しても優しかったと伝えられています。

まず明智光秀の正室は煕子という女性で、明智光秀よりも早く病気で亡くなっていたと考えられています。

明智光秀は煕子が生存中は側室を置かなかったといわれていますが、当時の武将としてはとても珍しいことと言えます。

また、明智光秀と煕子の婚約中の出来事です。

煕子は疱瘡で顔にあばたが残ってしまいました。

そこで煕子の父親は、煕子の妹を明智光秀の元に嫁がそうとしますが、これを見抜いた明智光秀は「妻は煕子に決めている」として結婚をしています。

この2つの逸話は、明智光秀の妻に対する優しさがにじみ出ています。

また明智光秀は、ある戦いで家臣を失いますが、その死を懇ろに弔っています。

これも当時、多くの家臣を持つ武将としては珍しいことです。

さらに明智光秀は治めた場所で善政を行ったといわれています。

そのため現在でも明智光秀が治めた京都府亀岡市では、毎年5月3日に亀岡光秀まつりが開催されています。

ルイス・フロイスは、明智光秀をほとんどすべての者から嫌われていたと批評していますが、家族・家臣・領民に対しては優しく接していたと考えられます。

また、家族・家臣・領民の誰かにだけ優しくしたのであれば演技とも考えられますが、これだけの人に優しくすることはなかなかできません。

明智光秀は優しい人物であったのは確かなことではないでしょうか。

まとめ

亀岡市の明智光秀像
この記事では、逸話を交えながら明智光秀の性格を考えてきました。

明智光秀は前半生が不明な人物です。

また後半は事績がはっきりとはしているものの、主君を倒した謀反人ということで、事実を曲げて伝えられていることも多いようです。

したがって、逸話そのものも玉石混交かもしれませんが、それでも逸話からある程度、明智光秀の性格を読み取ることができるのではないでしょうか。

今回、ご紹介した明智光秀の性格をまとめると

 

1 野心家だった

2 勉強家だった

3 合理主義者だった

4 生真面目で繊細だった

5 優しかった

という明智光秀像が生まれてきます。

明智光秀は歴史上とても有名な人物ですが、こうした性格の人は案外と周りにもいる。そんな気もしています。