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室町後期~江戸初期

稲葉一鉄の生涯と明智光秀とのトラブルの内容を簡単解説します!

稲葉一鉄と縁のある岐阜城

この記事では、戦国時代の武将である稲葉一鉄の生涯。

そして同じ時代を生きた、明智光秀との関係について簡単にご紹介をしていきます。

どうやら稲葉一鉄と明智光秀には深刻なトラブルがあったようです。

生没年出身
稲葉一鉄1515年~1589年美濃国
明智光秀不詳~1582年美濃国(?)
なお、稲葉一鉄は元は稲葉良通(いなばよしみち)。

稲葉良通が稲葉一鉄という法号を名乗るのは、1570年より後のことと思われますが、この記事では一般的に知られている稲葉一鉄の名前で書き進めていきます。

稲葉一鉄の生涯1 織田信長に仕えるまで

稲葉家は美濃国の土豪で、稲葉一鉄は稲葉通則の六男として誕生しています。

六男なので稲葉家を継ぐ立場ではありませんでしたが、父も兄たちも戦場で命を落としたため稲葉家の当主になります。

当時、稲葉家が仕えていたのは美濃国の守護大名である土岐頼芸(ときよりのり)です。

しかし時は戦国時代。

土岐頼芸は家臣である斎藤道三に、その座を追われてしまいます。

稲葉一鉄は改めて斎藤道三に仕えることになり、斎藤家の中で美濃三人衆と言われ重用されます。

美濃三人衆

 
稲葉一鉄いなばいってつ1515年~1589年
安藤守就あんどうもりなり不詳~1582年
氏家卜全うじいえぼくぜん不詳~1571年
その後、斎藤道三は子供の斎藤義龍と争い、1556年の長良川の戦いにおいて最期を迎えます。

このとき美濃三人衆は斎藤義龍の側につき、引き続きその力を保ち続けますが、1561年になると斎藤義龍は病死し、斎藤義龍の子の斎藤龍興(1548年~1573年)が跡を継ぎます。

齋藤家を継いだ斎藤龍興は年少、また暗愚と言われていました。

一方、隣国にいた織田信長は桶狭間の戦いで今川義元を討ち果たし、美濃国を虎視眈々と狙っていました。

織田信長が美濃国侵攻で行ったのが調略。

美濃三人衆は織田信長に誘いに乗り、最後は主君であった斎藤龍興を追放。

その後、美濃三人衆は織田信長に従うことになります。

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稲葉一鉄の生涯2 本能寺の変まで

稲葉一鉄は武将として有能だったようで、織田信長の家臣となって後は各地を転戦し武功をあげていきます。

1579年、稲葉一鉄は家督を嫡子の稲葉貞通(いなばさだみち)に譲り、出家をして稲葉一鉄を名乗るようになります。

このとき織田信長の許しを得ることなく、家督相続と出家をしたので織田信長の怒りをかいますが、特に処分されることもなく後に許されています。

決して家臣の勝手を許さない織田信長ですが、このエピソードは織田信長が稲葉一鉄を評価していたものと言えるかもしれません。

織田家の中でも武勇で知られていた稲葉一鉄ですが、1582年に本能寺の変が起こります。

稲葉一鉄の生涯3 亡くなるまで

稲葉一鉄と縁のある岐阜城
本能寺の変は織田家家臣の運命を大きく変えますが、稲葉一鉄はどのような行動をとったのでしょうか。

美濃三人衆の一人である安藤守就は本能寺の変後、明智光秀の側につきます。

対して稲葉一鉄は中立を保ち、攻めかかってきた安藤守就を打ち破ります。

その後は、明智光秀を破った羽柴秀吉(豊臣秀吉)に接近を図っていきます。

織田家の後継者を決める清須会議で、稲葉一鉄のいる美濃国を治めるのは織田信長の三男である織田信孝になります。

すでに羽柴秀吉と織田信孝は敵対関係にありましたが、1583年、羽柴秀吉と織田信孝・柴田勝家が戦った賤ケ岳の戦いにおいても稲葉一鉄は羽柴秀吉についています。

さらに1584年、羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康が戦った小牧・長久手の戦いでも羽柴秀吉についています。

稲葉一鉄が戦場に臨んだのは小牧・長久手の戦いが最後と言われていますが、本能寺の変後は一貫して羽柴秀吉に従い、1588年に美濃国で一生を終えています。

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稲葉一鉄と明智光秀とのトラブルとは

稲葉一鉄と明智光秀は、概ねですが同時代を生きた武将です。

また二人とも美濃国と縁が深く、織田信長に仕えた武将という点でも共通しています。

では、稲葉一鉄と明智光秀はどのような関係だったのでしょうか。

どうやら稲葉一鉄と明智光秀には深刻なトラブルがあったようです。

稲葉一鉄の家臣に斎藤利三(さいとうとしみつ、1534年~1582年)という人物がいます。

斎藤利三の前半生ははっきりとしない部分が多いものの、稲葉一鉄の家臣であったことは分かっています。

また斎藤利三は有能で、稲葉一鉄は自分の娘を斎藤利三の継室(2番目の正室)にしています。

稲葉一鉄が斎藤利三を評価していたことは間違いありませんが、稲葉一鉄と斎藤利三には何かの諍いがあった。

あるいは稲葉一鉄が斎藤利三を粗略に扱った。

何かしらの事情があり、斎藤利三は明智光秀の家臣になります。

斎藤利三は明智家では重用されていきますが、稲葉一鉄としては面白くはありません。

さらに、斎藤利三が稲葉一鉄の家臣を明智家に引き抜こうとしたことで、稲葉一鉄は激怒。

このことを主君である織田信長に訴えます。

織田信長は、稲葉家から明智家に移った武将を明智家に戻すようにという裁定をしますが、明智光秀はこれを拒否し織田信長の逆鱗に触れたという説があります。

また織田信長は、勝手に引き抜きをした斎藤利三に切腹を命じたのではないかとも言われています。

明智光秀が本能寺の変を起こした理由はさまざまに言われていますが、織田信長に叱責された明智光秀が恨みに思った。

あるいは切腹を命じられた斎藤利三が、明智光秀をそそのかして本能寺の変を引き起こさせた。

真実がどこにあるかは別にして、このような見解もあったようです。

何れにしても、このようないきさつがあったことで、稲葉一鉄は本能寺の変後も明智光秀に靡こうとしなかったのかもしれません。

稲葉一鉄と明智光秀は不仲であった。

当時、織田家での立場は明智光秀の方がはるかに上だったので、稲葉一鉄は泣き寝入りするのが普通だったのかもしれません。

そうはしなかったところに、稲葉一鉄の武将としての気骨がうかがわれます。

さいごに

稲葉一鉄と縁のある岐阜城
この記事では、戦国時代の武将である稲葉一鉄の生涯と、同じ時代を生きた明智光秀との関係について簡単にご紹介をしてきました。

稲葉一鉄は斎藤家を離反し、織田信長に臣従をしてきました。さらに本能寺の変後は、羽柴秀吉に臣従して生涯を終えています。

稲葉一鉄には、そうした頑固さをうかがい知ることができます。

ところで「頑固一徹」という言葉があります。

頑固一徹は、一度決めたら決して変えないというような意味がありますが、この語源は稲葉一鉄の生き方にあるといわれています。

稲葉一鉄の一鉄の文字を一徹に置き換えて、頑固一徹が生まれたと言われていますが、頑固一徹はまさに稲葉一鉄の生涯を見事に言い表しているように思えます。