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斎藤氏

斎藤義龍が父の斎藤道三と対立した理由や武将としての能力とは

斎藤義龍の居城の稲葉山城

この記事では、斎藤義龍が父の斎藤道三と対立した理由や、斎藤義龍の武将としての能力などを、簡単にお伝えしていきたいと思います。

斎藤義龍は戦国大名の一人として知られています。

もっとも斎藤義龍で有名なのは、戦国三大梟雄あるいは美濃の蝮という異名を持つ斎藤道三の息子であること。

そして、父の斎藤道三と対立し、最後は斎藤道三を敗死させたことではないでしょうか。

斎藤義龍は早い時期に亡くなり、息子の斎藤竜興の時に戦国大名としての斎藤氏は滅亡をします。

父の斎藤道三を死に導き、自身は早くに亡くなり、子の代に大きく衰退する。

そんなことから斎藤義龍はあまり評価はされていないようですが、この記事では斎藤義龍が父の斎藤道三と対立した理由。

そして、斎藤義龍の武将としての能力を簡単にご紹介していきます。

斎藤義龍の生涯とは

最初に斎藤義龍の生涯を年表でご紹介していきます。

 
1527年父斎藤道三、母深芳野の長男として生まれる
1554年斎藤道三より家督を譲られる
1555年弟の斎藤孫四郎・斎藤喜平次を謀殺する
1556年長良川の戦いで斎藤道三を敗死させる
1561年急死し、子の齋藤龍興が家督相続する

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斎藤義龍が父の斎藤道三と対立した理由とは

時は戦国、家臣が主君を倒すことも決して珍しくなかった時代です。

それでも、子が父を倒すことはやはり異常なことといえそうです。

では、斎藤義龍はどうして父の斎藤道三と対立して、さらには斎藤道三を死に追いやったのでしょうか。

正式な記録が残されているわけではないので断言はできませんが、大きく3つの理由が言われています。

それを列記すると次の通りになります。

 
■斎藤義龍と斎藤道三が対立した理由

① 斎藤義龍は斎藤道三の実子ではなかった。

② 斎藤道三と斎藤義龍は不仲で憎しみあっていた。

③ 家臣が斎藤道三を見限った。

 

それではこの3つの理由について、触れていきたいと思います。

斎藤義龍は斎藤道三の実子ではなかった

斎藤義龍が父の斎藤道三と対立した理由でもっとも有名なのは、斎藤義龍は斎藤道三の実子ではなかったという説です。

いくら戦国時代とはいっても、実際の親子で子が親を討つことは決して許されることではありません。

でも、血のつながった親子でなければ大義名分を立てることもできます。

斎藤義龍は斎藤道三の実子ではなかった。これは昔より一般的に言われていた説です。

ここで問題になるのは、斎藤義龍は誰の子であったのかということです。

まず斎藤義龍の母は深芳野で、深芳野は斎藤道三の側室です。斎藤義龍の母が深芳野であるのは間違いがないところです。

ただ深芳野は元々は土岐頼芸の愛妾で、当時、斎藤道三は土岐頼芸の家臣でした。

家臣の斎藤道三が主君の愛妾をもらい受けて側室にした。その後、側室にした深芳野から斎藤義龍が誕生しています。

ここでよく言われているのは、斎藤道三が深芳野を側室にしたとき、既に深芳野は土岐頼芸との子を授かっていて、それが斎藤義龍であるというものです。

斎藤義龍にすれば、実父を討つことはできないとしても、実父でなければ遠慮はいらない。

また、斎藤道三は深芳野を側室にした後、主君の土岐頼芸を追い出し自らが美濃国の大名になっています。

斎藤義龍から見たら、斎藤道三は実父の土岐頼芸を追放した仇となるので、斎藤道三を討つのに何の遠慮もいらなくなります。

斎藤義龍は斎藤道三の実子ではなかった。だから、斎藤義龍は斎藤道三を討ち果たした。

この話は、とても分かりやすく信じやすい説と言えそうです。

もっとも、斎藤義龍が土岐頼芸の子であるというのは、江戸時代に入ってからの創作と言われています。

また、当時の文書にも斎藤道三と斎藤義龍は実際の親子であるという記述が残っています。

現在は斎藤道三の実子ではなかったので、斎藤義龍は斎藤道三を討ち果たしたという説は否定されつつあるようです。

斎藤道三と斎藤義龍は不仲で憎しみあっていた

斎藤道三は、斎藤義龍を評価していなかったといわれています。

そのため、義理の息子であった織田信長に「美濃国」を譲るという遺言状を書いています。

また、斎藤道三は斎藤義龍ではなく、斎藤義龍の弟である斎藤孫四郎と斎藤喜平次をかわいがっていました。

父に評価されないばかりか、自分自身の立場が危ういと感じた斎藤義龍は斎藤孫四郎と斎藤喜平次を謀殺してしまいます。

斎藤道三と斎藤義龍は以前より対立関係にありましたが、斎藤孫四郎と斎藤喜平次の件で、両者の対立は緊迫の度を加えてい行きます。

家臣が斎藤道三を見限ったから

斎藤道三は一代で美濃国を手中に収めた。そんなことから斎藤道三は戦国三大梟雄の一人に数えられ、あるいは美濃の蝮とも言われています。

もっとも、美濃国を手に入れたのは、父と斎藤道三の親子2代によるもの。最近ではそんな説が有力になっています。

また美濃国を手に入れた後の領国経営ですが、はっきりとした事績は見えてきません。

言い換えると斎藤道三は戦いには熱心であったが、それ以外にはあまり興味を示さなかった。そんな可能性もあります。

1554年に斎藤道三は子の斎藤義龍に家督を譲ります。

それは斎藤道三が自らの意思でしたのではなく、家臣が斎藤道三を見限り、斎藤義龍の側についたため、仕方なく家督を譲ったともいわれています。

1556年の長良川の戦いで斎藤道三は生涯を終えますが、このとき家臣のほとんどは斎藤義龍につき、斎藤道三は孤立無援に近い状況で死を迎えざるを得ませんでした。

家督相続にしても、長良川の戦いにしても、斎藤道三は家臣からの信望を失っていた。

そして家臣は斎藤家を維持するために、斎藤道三ではなく子の斎藤義龍を選んだ。

そのような説もあります。

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さいごに 斎藤義龍の武将としての評価とは

金華山より長良川を望む
二代にわたっての成果とはいえ、斎藤道三は美濃国を手中に収めました。

戦国大名としての斎藤道三の知名度は抜群です。

では、子の斎藤義龍の評価はどうだったのでしょうか。

まず、斎藤家の家臣は斎藤道三ではなく、斎藤義龍を選びました。

また長良川の戦い後、急死するまでの期間は僅か5年程度ですが、この間、斎藤家の内紛というのは聞こえてきてはいません。

もしかしたら斎藤道三の死後は、家臣団の力が強くなり、斎藤義龍の権力は限定されていた。

そんな可能性もないわけではありませんが、斎藤義龍の在世中の斎藤家は安定していましたし、対外的にも力を誇示し続けることができていたようです。

斎藤義龍は早くに病死してしまいます。

その後を継いだ斎藤竜興の代になって、美濃国は斎藤道三の義理の息子であった織田信長に奪われてしまいます。

そのようなことから斎藤義龍の武将としての評価は定まったものはないようですが、やはり相当の力量を持った武将だったのではないか。

そのようにも思われますがいかがでしょうか。