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次郎法師・井伊直虎の名前の由来などをご紹介します
この記事では、戦国時代におんな城主と言われた井伊直虎。この記事では井伊直虎とはということで、井伊直虎について簡単にご紹介します。
また、井伊直虎はその生涯で次郎法師・井伊直虎・祐圓と名前を変えていますが、それぞれの名前の由来などについてもご紹介をしていきます。
井伊直虎とは
井伊直虎とはどのような人物だったのでしょうか。井伊直虎の生年は明らかではありません。一説には1536年頃ではないかとも言われていますが確証はないようです。
一方、亡くなったのは1582年。この年は6月に有名な本能寺の変がありますが、井伊直虎はこの直後の9月に病気により亡くなっています。
1536年に生まれ、1582年に亡くなったのであれば享年は46歳の頃。人生50年と言われた時代とはいえ、早くに亡くなっていることが推測できます。
また、井伊直虎の子供の頃の名前も伝わっていません。
井伊家の都合から早くに出家をして、次郎法師を名乗ります。
さらに井伊家に後継者がいなくなってしまったことから次郎法師は還俗して井伊直虎となります。
そして晩年には井伊家の後継者として井伊直政が成長したことを受け、祐圓と名乗りその生涯を閉じることになります。
井伊直虎についてははっきりとしないことも多く、中には井伊直虎は女性ではなく男性だったという意見もあるようです。
ただ、この記事では通説としておんな城主と言われた一人の女性が、どうして次郎法師、井伊直虎、祐圓と名前を変えていったのか、それぞれの改名の由来を簡単にご紹介していきたいと思います。
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次郎法師の名前の由来とは
前述のとおり、おんな城主と言われた井伊直虎は生年も幼名も明らかではありません。
ところが、ある事情により一人の女の子は次郎法師を名乗るようになります。
では、次郎法師を名乗るようになった由来とはどのようなものだったのでしょうか。
井伊家の当主は井伊直盛。
井伊家は小さいながらも井伊谷(いいのや)一帯を治める領主で、井伊直盛は第22代の当主となります。
しかし、井伊直盛には後継者たる男子はおらず、子供はたった一人の女の子でした。
時は戦国時代。小さな女の子に領地を治める力などはありません。
そのため、井伊直盛は弟の井伊直満の子である井伊直親を自らの娘と結婚させ井伊家の当主とすることになりました。
しかし、前述のように時は戦国時代。
小領主に過ぎない井伊家は隣接する大名今川義元に従属する立場でした。
井伊家は小さいながらも由緒ある家系。そのため井伊家の中には今川家に従属することに不満を持つ武士も少なからずいたようです。
その一人と目されていたのが井伊直満。しかし今川義元に謀叛の疑いをかけられた井伊直満は今川家により殺害をされてしまいます。
井伊直満が謀叛の疑いで殺されたということは、その子供である井伊直親も謀叛人の子として追われる立場になります。
命の危険を感じた井伊直親はこのとき遠く信州に逃亡を図ります。このことを女の子の立場から見たら、婚約者が目の前から消えてしまったことを意味しています。
女の子は婚約者がいなくなったことを悲しむとともに、他の人から縁談を申し込まれることを避けるために出家をすることを考えます。
このときに女の子は次郎法師となります。
この次郎法師の由来としては、次郎というのは井伊家の惣領に代々つけられていた名前。また法師は男の僧侶につけられるもの。
女の子であれば尼僧になるのが一般的ですが、尼僧は還俗ができない。しかしながら法師であればまだ還俗の道が残されている。
周囲の深慮遠謀があったためと思われますが、女の子でも井伊家のたった一人の後継者。将来のことを考えて井伊家の血統を残せるようにしておいた。
これが次郎法師の名前の由来と考えられています。
なお、次郎法師と名乗るようになったのは1544年頃と言われています。
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井伊直虎の名前の由来とは
信州に逃げていた井伊直親ですが1555年に井伊谷に戻り、合わせて今川義元にも許され井伊谷を領有します。しかし、すでに僧侶になっていた次郎法師は井伊直親と結婚することもできず、結局、井伊直親は他の女性と結婚し、井伊家の後継者となります。
これで井伊家は存続することができましたが1560年に桶狭間の戦いで今川義元が討死したことで井伊家は大きな渦に巻き込まれていきます。
今川義元の後継者は今川氏真。しかし今川氏真には大国を治めるだけの能力はなく、さらに猜疑心の強い今川氏真は井伊直親の謀叛を疑い井伊直親を謀殺してしまいます。
それが1562年のこと。さらに井伊家の勢力はそぎ落とされ、最終的には次郎法師以外の井伊家の後継者の資格を有する男子はすべていなくなってしまいました。
そこで次郎法師は還俗をして井伊直虎を名乗るとともに、井伊谷を治める決意を固めます。
次郎法師がどうして井伊直虎と改名をしたのか。
井伊直虎は女性です。しかし、近隣諸国に女性であることが分かってしまうと、侮りを受けてしまいます。
そのため、井伊直虎といういかにも屈強をイメージさせる名前をつけたと考えられています。
なお、井伊直虎と名乗るようになったのは1565年です。
さいごに
井伊直虎が最後に名乗ったのは祐圓です。
今川氏親に謀殺された井伊直親には一人の男児がいました。この男児こそ後の井伊直政ですが、井伊直政は周囲の尽力で徳川家康の家臣に列することができ、さらには順調に出世をしていきます。
このことで井伊家の安泰を悟った井伊直虎は一線から身を引き、井伊直政に後事を託すことを決意します。
井伊直虎の名前はもう必要ありません。
そこで改めて名乗ったのが祐圓。
先の次郎法師は本来は男性僧侶の名前。次郎法師は将来還俗の可能性があったことで名づけられたものですが、祐圓は尼僧の名前。
もう私の役割は終わったということを周囲に知らせる名前が祐圓です。
一般の女性では決して味わうことのない波乱の人生でしたが、最後に尼僧としてその生涯を終えることができた。
幸せで充実した生涯ではなかったのでは。そんなイメージを祐圓から感じ取ることができそうです。
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