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日本史

酒井忠次の事績や能力・評価・逸話などをお伝えします!

酒井忠次像

酒井忠次とは

この記事では酒井忠次の事績や、武将としての能力・評価・逸話などをお伝えします。

酒井忠次(1527年~1596年)は徳川家康に仕えた武将で、徳川家康の草創期を支え、本多忠勝・榊原康政・井伊直政とともに徳川四天王の一人に数えられています。

しかし、ともに1548年生まれの本多忠勝・榊原康政、1561年生まれの井伊直政とは相当な年齢差があります。

徳川家康は1542年生まれなので、1527年生まれの酒井忠次は徳川四天王の中でも唯一の年長者。

酒井忠次は徳川家康が幼少の頃より主君を支えた武将で、徳川家の家臣としては同時代を生きた石川数正(1533年~1593年)と双璧をなす存在であったと言えそうです。

それでは、酒井忠次の事績を時系列で追うとともに、武将としての能力や評価、そして逸話などをご紹介します。

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酒井忠次とは 生まれてから徳川信康が亡くなるまで

酒井忠次は、松平氏(後の徳川氏)の家臣酒井忠親の次男として誕生します。

最初、酒井忠次は松平広忠(徳川家康の父)に仕えますが、当時の松平氏は弱小で今川義元の庇護を受けざるを得ない立場でした。

そのため、松平広忠の嫡男である竹千代(後の徳川家康)は、今川家の本拠地である駿府で人質生活を送ることになります。

このとき、酒井忠次や石川数正も徳川家康に従っています。また、この頃には初陣を果たし、織田家との戦いにも勝利しています。

1560年の桶狭間の戦いで今川義元は討死。人質生活を送っていた徳川家康も独立を果たし、酒井忠次は家老に任命されます。

1563年、徳川家を揺るがした三河一向一揆が起こります。

徳川家の家臣の多くが一向一揆に加わったのに対して、酒井忠次は徳川家康の元を離れることはありませんでした。

1564年には、三河国の西側を石川家成(1534年~1609年)、東側を酒井忠次が統制することになります。

※ 石川家成は石川数正の叔父です。当時、石川数正は主に徳川家の外交交渉の役割を担っていましたが、少し遅れて酒井忠次・石川家成とともに家老に任じられています。

その後の酒井忠次は、1569年の駿河侵攻、1570年の姉川の戦い、1573年の三方ヶ原の戦い、1575年の長篠の戦など、徳川家の主だった戦いにはことごとく参加し戦功をあげています。

1579年、徳川家にとって大きな事件が起こります。

徳川家康の嫡男は徳川信康(松平信康)で徳川家康の跡を継ぐ存在でした。しかし、織田信長の娘で徳川信康の正室徳姫が、夫の不行跡を父の織田信長に報告。

織田信長は酒井忠次を呼び寄せ真偽を確かめます。酒井忠次は内容の多くを認めたことから、織田信長は徳川家康に命じ徳川信康を切腹に追い込んでいます。

もっとも最近では、徳川信康の切腹は織田信長が命じたものではないという説が有力です。

徳川家康と徳川信康は紛れもない親子ですが、徳川信康が成長するとむしろ反目。

徳川家康も制御できなくなったため、織田信長の内諾を得たうえで、徳川家康の意思で子に切腹を命じたというものです。

これが真実だとすれば、酒井忠次の行動も違った角度から見る必要が出てきます。

 
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酒井忠次とは 本能寺の変から亡くなるまで

酒井忠次自身は徳川信康切腹後も地位を保ち続け、1582年の本能寺の変を迎えます。

本能寺の変後、明智光秀を討ったのは豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)で、豊臣秀吉は天下取りにまい進していきます。

一方、徳川家康は天下取りについては後れを取ったものの、武田家滅亡後に空白地帯となっていた甲斐国・信濃国に進出を図っています。

1584年、小牧長久手の戦いが起こります。

1585年、徳川家で酒井忠次とともに重要な役割を担っていた石川数正が、豊臣秀吉の元へ出奔。

酒井忠次は徳川家にあって第一の重臣になっています。

その後、1588年に隠居、京都で生活を送り1596年に亡くなります。

 
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酒井忠次の武将としての能力や評価

酒井忠次は生まれながらにして徳川家の家臣で、しかも徳川家康を裏切ることなく生涯を全うした武将です。

また、徳川四天王の中で最も年長ということもあり、他の3人の武将やその他多くの武将の抑えになっていたと考えられます。

武力という面では、個人としても優れていたと言われていますが、多くの戦いに参加し戦功をあげているところを見ると、指揮官としてもすぐれていたと言えそうです。

同時代を生きた石川数正は外交交渉を得意としていました。一方、酒井忠次は徳川家内部の統率や、戦いでの指導力が評価されています。

徳川四天王の中でも、本多忠勝は個としての能力、榊原康政は統率力が評価されていますが、酒井忠次は両方を兼ね備えた武将であったのかもしれません。

さいごに 酒井忠次の逸話

この記事の最後に、酒井忠次に関する逸話のいくつかをご紹介します。

酒井忠次の海老すくい

酒井忠次は徳川家の重臣です。しかし、酒宴では「海老すくい」という、おどけた踊りを披露し、周囲を和ませたと伝えられています。

徳川家康への苦情

1590年、小田原征伐で北条氏が滅亡すると、豊臣秀吉の命で徳川家は関東の地に移封されます。

この時、徳川家康は功臣に新たな領地を分け与えます。

徳川四天王の中で、井伊直政には12万石、本多忠勝と榊原康政にはそれぞれ10万石。

酒井家はすでに酒井忠次が隠居して、子の酒井家次の代になっていましたが、酒井家次に与えられたのは僅か3万石。

このことを酒井忠次が徳川家康に苦情を言うと、徳川家康からの言葉は「そなたでも子がかわいいのか」というもの。

徳川信康が切腹に追い込まれたとき、かばうことをしなかった酒井忠次に対する怒りの言葉のようにも聞こえます。

しかし前述のとおり、徳川信康の切腹が徳川家康主導で行われたとしたら、この言葉は出てこないはずです。

また、だいぶ先になりますが、1616年に酒井家次も10万石の領地を得ています。

酒井忠次の逸話の中でも、もっとも有名な逸話ですが、真偽については微妙なようです。

織田信長の嘲笑

長篠の戦の前、酒井忠次は軍議の席で武田家への奇襲攻撃を提案。

しかし、織田信長は「そのような小細工は不要だ」と、酒井忠次の提案を否定したばかりでなく嘲笑します。

面目を失った酒井忠次ですが、軍議の後、改めて織田信長に呼び出されます。

織田信長の言葉は「軍議の内容が武田家に漏れてしまう可能性があるので表向きは却下した。しかし、とても良い案なのですぐに実行に移すように。」というものです。

その後、奇襲攻撃は成功し、長篠の戦の後、織田信長から改めて激賞されています。

 
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