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水野信元が最期を迎えるまでと徳川家康との関わり合いとは

水野信元の居城刈谷城
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水野信元とは

水野信元(不詳~1576年)は戦国時代末期を生きた武将です。

水野信元の妹は於大の方(1528年~1602年)。そして於大の方と松平広忠の間に生まれた子が徳川家康(1543年~1616年)です。

水野信元は妹の於大の方、甥の徳川家康の生涯に大きな影響を及ぼすものの、最期は徳川家康により生涯を閉じています。

水野信元の最期を迎えるまでの生涯と、徳川家康との関わり合いとはどのようなものだったのでしょうか。

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家督を継いでから知多半島を統一するまで

水野信元は水野忠政の子で、水野忠政が亡くなった後の1543年に家督を継ぎます。

水野忠政は尾張国知多郡や三河国碧海郡の一部を治めていて、その領地を水野信元も引き継いでいます。

もっとも時は戦国時代。水野家の領土も盤石とはいえない状況で、近隣の有力大名の庇護を受けなければ生き延びていけない存在でした。

ところで、水野忠政と水野信元には大きな違いがありました。

それは、父の水野忠政が今川氏寄りであったのに対し、子の水野信元は織田氏寄りであったことです。

水野信元の妹於大の方は、水野忠政により西三河一帯を治めていた松平広忠に嫁ぎますが、これは水野も松平も今川氏寄りであったためです。

しかし、水野信元は織田氏寄りに転換し、松平広忠は今川氏寄りのまま。また、織田氏と今川氏は緊張状態にありました。

そこで、水野信元は於大の方を離縁させ実家に引き戻しています。

松平広忠と於大の方の間には既に竹千代(後の徳川家康)が誕生していますが、僅か3歳の竹千代と於大の方は生き別れの運命にさらされてしまいます。

水野信元には知多半島を統一したいという野望がありました。

そこで利用したのが於大の方です。

水野信元は知多郡の一部を領有する久松俊勝を味方に引き入れるため、於大の方を久松俊勝に嫁がせています。

そして、争いを繰り広げた結果、1547年には知多半島の大部分を治めることに成功します。

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桶狭間の戦いまで

水野信元が領土拡大を図っているとき、近隣で争っていたのが尾張の織田信秀と駿河の今川義元です。

織田信秀と今川義元が対抗していた時代は、ある程度のパワーバランスが保たれていましたが、1551年織田信秀が急死したことで状況が変わります。

織田信秀亡き後、家督を継いだ織田信長は奇矯な行動が目立ったことから、織田家は内紛状態に陥ります。

内紛は数年続きましたが最終的には織田信長が実権を握り、さらには織田信秀の時代には成しえなかった尾張一国の統一も果たします。

1560年、桶狭間の戦いが起こります。

戦力的には今川氏が圧倒的に上で、織田信長に勝てる見込みはないと思われましたが、織田信長が今川義元の本陣を急襲。

今川義元はあっけない最期を遂げます。

この時、今川氏の一武将として働いていたのが松平元康(後の徳川家康)で、戦いの前線である大高城にいました。

織田軍の勝利は、大高城にいた徳川家康の命の危機になります。

そこで徳川家康は大高城からの撤退を決めますが、この時に手助けをしたのが叔父の水野信元であったと伝えられています。

三方ヶ原の戦いまで

桶狭間の戦いが終結しても、織田氏と今川氏の対決の構図に変わりはありません。

織田家に属する水野信元と今川家に属する徳川家康は、小競り合いのような戦いを引き続き行っていたようです。

しかし、徳川家康は今川義元の家督を継いだ今川氏真に見切りをつけ織田信長に接近。

1562年には、織田信長と徳川家康の間に清洲同盟が結ばれますが、仲介を果たしたのが水野信元であったと言われています。

既に実子を亡くしていた水野信元は、1567年に家督を養子の水野信政に譲りますが武将としては現役。1570年の姉川の戦いでも活躍を見せています。

そして1572年。

徳川家康の生涯で最大の敗戦と言われる三方ヶ原の戦いが起こります。

三方ヶ原の戦いは、武田信玄と徳川家康が直接対決した戦いです。

戦力は武田信玄が圧倒的に上、また徳川家康も武田信玄と直接戦わなくても済むという状況でした。

実際、徳川家の重臣も援軍として参加していた水野信元も、浜松城籠城を主張します。

しかし、多くの反対を押し切って徳川家康は出陣。

結果は大敗で、徳川家康も命の危険にさらされます。

徳川家康はどうにか浜松城に逃げ込むことができますが、武田の軍勢が押し寄せてくるかもしれません。

そこで水野信元は、城に松明を掲げて武田軍に意気軒高なところを示し、用心した武田軍も浜松城を攻めることはありませんでした。

三方ヶ原の戦いで徳川家康の命を救った家臣は数多くいますが、叔父の水野信元も大きな活躍を見せたようです。

水野信元の最期

水野信元の最期は突如として訪れます。

織田家は当時武田勝頼と戦っていましたが、武田方の武将秋山信友の籠城に際して、攻めていた水野信元が城に兵糧を送り込んだ、あるいは内通したという疑いがかけられます。

この報告を織田信長にしたのは、織田家重臣の佐久間信盛です。

佐久間信盛を信じた織田信長は徳川家康に命じ、徳川家康は家臣の平岩親吉に命じて、水野信元や養子の水野信政を岡崎城に呼び出したうえ切腹を命じます。

ところで水野信元が岡崎城へ赴くとき、案内役を務めたのが於大の方の夫久松俊勝です。

久松俊勝は何も知らされないまま案内役だけを務めたところ、そこで行われたのは水野信元の謀殺。

このことに怒った久松俊勝は引退してしまいます。また、於大の方も兄水野信元の死に対して大きな怒りをみせていたと伝えられています。

なお、水野信元の所領は讒言をした佐久間信盛に与えられています。

さいごに 水野家のその後

1580年、水野信元を死に追いやった佐久間信盛が追放されます。

織田信長が佐久間信盛に送った19条からなる折檻状は有名ですが、その中に水野家に関する部分があります。

それは、「佐久間信盛に水野信元の所領を与えたのに家臣を増やそうともしない。」というもので、佐久間信盛の怠慢を糾弾しています。

そして、水野信元に罪はなかったとして、水野信元の末弟水野忠重(1541年~1600年、於大の方の弟)に水野家再興を許します。

※ 水野信元の最期は、佐久間信盛の讒言であると言われています。しかし、当時勢力を拡大していた水野信元を、織田家や徳川家が排斥するために仕組んだものという意見もあります。

 
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