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藤原彰子と紫式部の生涯と二人の関係をお伝えします!

紫式部のイメージイラスト
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藤原彰子と紫式部

この記事では、藤原彰子(ふじわらのしょうし又はふじわらのあきこ)と藤原彰子に仕えた紫式部、それぞれの生涯とともに二人の関係をお伝えします。

藤原彰子は、一条天皇の中宮(皇后)となった女性。

紫式部は「源氏物語」で著名な人物ですが、藤原彰子と紫式部はどのような関係だったのでしょうか。

まずは、藤原彰子と紫式部それぞれの生涯を簡単にお伝えします。

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藤原彰子の生涯

988年藤原道長の長女として誕生
1000年一条天皇の中宮(皇后)となる
1001年一条天皇の第一皇子敦康親王の養母となる
1008年一条天皇の第二皇子敦成親王(後一条天皇)を出産
1009年一条天皇の第三皇子敦良親王(後朱雀天皇)を出産
1011年一条天皇が三条天皇に譲位、第二皇子敦成親王が皇太子になる、一条天皇崩御
1016年三条天皇崩御、後一条天皇が即位
1036年後一条天皇崩御、後朱雀天皇が即位
1045年後朱雀天皇崩御、後冷泉天皇が即位
1068年後冷泉天皇崩御、後三条天皇が即位
1074年藤原彰子亡くなる
藤原彰子は、藤原道長の長女として誕生します。

藤原道長は摂政を務めた人物ですが、藤原彰子が生まれた当時、権力を握っていたのは藤原道長の兄藤原道隆でした。

藤原道隆は、長女藤原定子を一条天皇の中宮にしますが995年に死去。

藤原道隆死後は、藤原道隆の弟で藤原道長の兄藤原道兼が後継になるものの、藤原道兼もすぐに死去。

996年、藤原道長と藤原道隆の嫡男藤原伊周(ふじわらのこれちか、974年~1010年)の後継争いが起こります。

結果は、藤原道長の勝利。藤原伊周は左遷され、藤原伊周の妹の藤原定子も宮中を出て落飾します。

998年、藤原定子は宮中に戻り、一条天皇との間に997年に第一皇女、999年には第一皇子敦康親王が生まれています。

もっとも、時の権力者は藤原道長。

1000年に藤原道長は長女藤原彰子を中宮(皇后)にします。

既に一条天皇の中宮には藤原定子がいたので、一条天皇には二人の皇后がいたことになりますが、この状況を改めるため藤原定子は皇后宮を号しています。

1001年、藤原定子は第二皇女を出産後に死去。

しかし藤原彰子は13歳で子を望めないことから、藤原彰子は一条天皇の第一皇子敦康親王の養母となります。

これは権力の座を維持したい、藤原道長の意向も強く働いていたものと考えられます。

藤原彰子は敦康親王を熱心に養育しますが、1008年に第二皇子敦成親王、1009年に第三皇子敦良親王が誕生すると少しずつ状況が変化していきます。

1011年、一条天皇が病気になったときに、藤原道長は天皇に譲位を迫ります。

一条天皇は第一皇子敦康親王を後継にすることを望みますが、藤原道長の思いはそこではありません。

結果として、一条天皇は従兄弟の三条天皇に譲位し、第二皇子敦成親王が皇太子になります。

そして一条天皇が崩御し、三条天皇も1016年に譲位、敦成親王(後一条天皇)が即位します。

また、幼い後一条天皇を補佐するため藤原道長は摂政になります。

藤原道長の狙いは、摂政になり政治の実権を握ること、そして家の繁栄を後代につなげることでした。

1017年、藤原道長は嫡男の藤原頼通に権力を移譲し、政界から引退します。

藤原道長と藤原頼通の時代は摂関政治の全盛期と言われていて、藤原彰子も藤原頼道の時代には政治体制を支えていたと伝えられています。

しかし、1036年に後一条天皇崩御、1045年には後朱雀天皇崩御と、僅か10年の間に二人の実子に先立たれます。

後朱雀天皇の次に即位した後冷泉天皇は、後朱雀天皇の子で藤原彰子にとっては孫。

また後朱雀天皇の皇后は、藤原頼通の娘だったので、この時点では藤原氏の時代が続いていたと考えられます。

しかし、1068年に崩御した後冷泉天皇の次に即位した後三条天皇の母は藤原氏ではありませんでした。

藤原氏は権力の座にあったものの、1074年に藤原頼通と藤原彰子が亡くなるとともに、藤原氏による摂関政治は終わりを迎えます。

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紫式部の生涯

970年~978年藤原為時の子として生まれる
998年頃藤原宣孝と結婚
999年娘・藤原賢子(大弐三位)誕生
1001年藤原宣孝死去
1006年又は1007年中宮藤原彰子の女房として仕える
1012年以降中宮藤原彰子の元を離れる
1014年~1031年死去
紫式部は教科書に載るほど著名な人物で、「源氏物語」はあまりにも有名です。

しかし、当時はよほど高貴な身分でなければ、生没年さえわからないのが当たり前の時代でした。

紫式部も父の名前こそわかっているものの、生没年については諸説あります。

また結婚も一度していて死別したことは分かっていますが、再婚説などもあるようです。

そして、藤原彰子に仕えたことは分かっているものの、こちらもいつからいつまでについては諸説あります。

紫式部が藤原彰子の女房になった理由

紫式部が藤原彰子の女房になったのは、藤原彰子の父藤原道長の強い意向があったためです。

藤原道長は、娘の藤原彰子を一条天皇の中宮にしますが、当時の結婚は夫が妻の元を訪ねる妻問婚(つまどいこん)でした。

また、この場合の妻は一人とは限らず、後宮には中宮だけでなく、それより身分が低い女御(にょご)や更衣(こうい)も複数いました。

天皇は、誰の元を訪ねるのも自由ですし、さらに身分差があっても子、特に男子が生まれると立場は変化します。

藤原道長にしてみたら娘を中宮にするのは第一段階。

次に求めるのは藤原彰子が男子を産むことで、男子が将来の天皇になれば、藤原氏の立場はさらに安定します。

そこで求められるのは、中宮藤原彰子の魅力もさることながら、周辺の環境整備でした。

当時、娯楽などはあまりありません。

しかし、藤原彰子のところに行けば、和歌が得意なもの、会話が巧みなもの、あるいは知識が豊富なもの。

さまざまな特技を持つ女性が多ければ、訪問の機会も多くなります。

女房とは特異な能力を持つ人々で、雇うには相応の費用もかかります。

その費用を賄ったのは、実家である藤原道長です。

藤原彰子の女房としては、紫式部以外にも、赤染衛門・和泉式部・小式部(和泉式部の娘)・大弐三位の存在が知られています。

では、なぜ紫式部は藤原彰子の女房になったのでしょうか。

こちらについては、紫式部の才能が強く影響しているようです。

紫式部の父藤原為時は、身分は高くなかったものの漢詩人として著名で、娘の紫式部も漢文の才能があることで知られていました。

紫式部が藤原彰子の女房になった理由は他にもあるかもしれませんが、紫式部は藤原彰子の家庭教師のような役割も果たしていたと考えられています。

なお、「源氏物語」は夫が亡くなった翌年頃から書き始められ、藤原彰子に仕えている時期に完成したと伝えられています。

また、紫式部のもう一つの代表作である「紫式部日記」は、藤原彰子に仕えていた1008年~1010年の宮中の様子を中心に描かれています。

藤原彰子と紫式部の関係とは

この記事の最後に、藤原彰子と紫式部の関係についてお伝えします。

藤原彰子と紫式部の関係は主従であり、内面的な部分ははっきりとはわかりません。

しかし紫式部日記では、藤原彰子をとても上品で奥ゆかしいと表現しています。

紫式部は、藤原彰子の世話をする女房であり、家庭教師のような役割を果たしていましたが、心中では藤原彰子を敬愛していた様子がうかがえます。

 
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